ウィキペディアの書き換え前・後 対比表とリンク2

●源義親

・①「源義親」の魚拓 (書き換え前2011110日時点のwikiの「3 子供」と内容が同じ)

http://megalodon.jp/2011-1107-2054-08/puci.jp/article/源義親/3

・②「源源義親 - 暇つぶしWikipedia」の魚拓 (書き換え後2011118日時点のwikiと内容が似ている)

http://megalodon.jp/2011-1107-2030-24/yomi.mobi/wgate/源義親/

・③源義親 wiki (しょっちゅう更新される、魚拓は取ることができない)

http://ja.wikipedia.org/wiki/源義親

●源為義

・④「源為義」の魚拓 (書き換え前201027日時点のwikiの冒頭と内容が同じ)

http://megalodon.jp/2012-0610-1358-57/diccionario.sensagent.com/源為義/ja-ja/

・⑤「源為義 - 暇つぶしWikipedia」の魚拓 (書き換え後2011118日時点のwikiと内容が似ている)

http://megalodon.jp/2012-0610-1403-18/yomi.mobi/wgate/源為義/

・⑥源為義 wiki (しょっちゅう更新される、魚拓は取ることができない)

http://ja.wikipedia.org/wiki/源為義

●源義信

・⑦「源義信」の魚拓

http://megalodon.jp/2011-1107-2139-30/puci.jp/article/源義信/1

●源義忠

・⑧「源義忠」の魚拓

http://megalodon.jp/2012-0610-1410-22/dictionnaire.sensagent.com/源義忠/ja-ja/

 

wiki「源義親」「源為義」についての感想

 書き換え前のwikiについて。

 「源義親」(2011110日時点のwiki)(書き換え前)には、「五男 源為義」「妻 高階基実の娘」とある。

 「源為義」(201027日時点のwiki)(書き換え前)には、「義親の五男で源義忠(一説に源義家)の養子」「父母 源義親、高階基実娘、養父:源義忠」とある。

 上の⑦「源義信」の魚拓によると、源義信は源義親の長男で妾腹だったが、官途では弟の源為義より好調で、最終的には従四位下左兵衛佐まで昇進した、とある。妾腹だったから、源氏の主流から外れていったらしい、と書いてあった。

 書き換え後のwikiについて。

 「源義親」(2011118日時点のwiki)(書き換え後)には、「源 義親(みなもと の よしちか)は、平安時代後期の武将。源義家の子。尊卑分脈では次男、源為義の父とされるが異説あり。」とある。

 「源為義」(2011118日時点のwiki)(書き換え後)には、「父:源義家、母:藤原有綱女」と書いてあり、「源義親の四男とする室町時代中期成立の尊卑分脈の記載が尊重されていたが、北酒出本『源氏系図』、長楽寺本『源氏系図』、妙本寺『源家系図』、『佐竹家系譜』などの記載や平安時代後期の太政大臣藤原忠実の日記『殿暦』の記載により、為義は義家の四男であったとする佐々木紀一説が発表され尊卑の記載に基づく通説が揺らいでいる。」とある。しかし私はこれは怪しいと思う。

 また、「1.1 生い立ち 永長元年(1096年)、源義親の四男として生まれる。『尊卑分脈』の為義傍注によれば、父の義親が西国で乱行を起こしたため、義家は義忠を継嗣に定めると同時に、孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたという。この記述に従えば、幼少の為義は叔父の義忠や祖父の義家と共に京にいたと思われる。」とある。この「四男」というのは、正室腹の中では四男ということだと解釈し、信じることにする。

 また、「角田文衛は、義信(長男)・義俊(次男)・義泰(三男)・義行(五男)がそれぞれ対馬太郎・対馬次郎・対馬三郎・対馬四郎の呼び名を持つことから、この4人が正室所生の同母兄弟で、為義は庶子だったのではないかと推測している。」とある。これは怪しいと思う。

 書き換え後のwikiでは、源為義は、源義家の四男と、源義親の四男という、二通りの説が書かれて、混乱している。しかしいずれにしろ、従来の、「源為義は、源義親と正室・高階氏との間の子で、源義親の五男」という通説を否定している。

 このことについて分析して考えてみよう。

 

 私は通説通り、「源為義は、源義親と正室・高階氏との間の子で、源義親の五男」を信じることにする。これらのwiki書き換えは、藤原派の人間が、源頼朝の祖父・源為義の母が継体王朝の末裔である高階氏であることを否定しようとして、行ったのではないか、と考える。以下、その理由を述べていこう。

 源為義(1096年-1156年)は、年齢的に57歳も離れた義家(1039年-1106年)の「四男」ではなく、孫、つまり次男・源義親(?-1108年?)の子と考えるのが妥当である。義家の五男、六男(或いは六男、七男)と言われる、義時、義隆よりも多分、年下だろう。源義親が反乱を起こし、追討された1101年、為義は5歳位の幼児だった。1106年に義家は死去している。その前に、義家は四男・義忠(1083年-1109年)を継嗣に定めると同時に、孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたのだろう。

 為義はあまり出世しなかったし、義家の四男・義忠の養子になって、義忠がすぐ暗殺されて跡を継いだので、面倒くさいから「義家四男の養子」の意味で、「の養子」を省略して、「義家四男」と書いたと思われる。昔、私の家で犬を飼っていたとき、「犬に味噌汁をかけて」とよく母親に頼まれたが、犬の体に味噌汁をかけるのではなく、犬のご飯に味噌汁をかける、という意味である。「のご飯」を略しているだけである。それと同じだ。また、もし為義が義家四男ならば、義忠が通常、「義家四男」で通っていたことと矛盾する。為義が真実、「義家四男」だったと考えると、そのために新しく発生してしまうこの矛盾を、うまく説明することが出来ない。しかし、「義家四男の養子」の略として「義家四男」と書いていたのなら、矛盾は生じず、整合性がある。

 為義は、謀反人の源義親の子供としては、源氏の棟梁の跡を継げなかったから、幼児の頃、叔父・義忠、祖父・義家らの所に引き取られ、義忠の養子として跡を継いだ。しかし、養父・義忠がすぐに死んでしまって影が薄いこと、そのため義忠が、しばしば文献上でその存在をすっ飛ばされること、養父義忠の養子として跡を継ぐことを指定したのは、祖父義家なので、義家の養子と見る説もある、と考えられる。実際、上の⑧にも、「義忠はこの時代の源氏の棟梁でありながら暗殺されたことから存在感はあまりない。書籍などでは記載がないことが多い人物で、棟梁でありながら略系譜などでは割愛されることすらある。」とある。

 為義は、源氏の棟梁の跡を継ぐ目的で、実父の戸籍から抜けて、叔父・義忠の養子となった。上の方でも述べたように、「源為義」(2011118日時点のwiki)(書き換え後)には、「角田文衛は、義信(長男)・義俊(次男)・義泰(三男)・義行(五男)がそれぞれ対馬太郎・対馬次郎・対馬三郎・対馬四郎の呼び名を持つことから、この4人が正室所生の同母兄弟で、為義は庶子だったのではないかと推測している」とある。しかし、昔のその当時の一夫多妻制の時代では、母が違っても、長男、次男、三男、四男、と数えるのが通常だった。現代の日本では、父が最初の妻との間に儲けた3人の男子が上からA男、B男、C男、離婚、再婚して次の妻との間に儲けた3人の男子が上から、D男、E男、F男だとすると、A男:長男、B男:次男、C男:三男、D男:長男、E男:次男、F男:三男となる。現代の数え方を昔の数え方に当てはめて推測しているから、間違っているのでは、と思う。その当時、庶子でも、庶子として認知されていれば、長男、次男、三男、・・・、という数え方から、勝手に飛ばしたりしなかったからだ。

 また、第三代将軍源実朝まで、正室腹が源氏の棟梁として跡を取ってくるのが普通だった。義家の正室は源隆長娘、藤原有綱娘のどちらなのかはっきりしていないが、義家は正室腹であり、父・為義と疎遠だった義朝も正室腹で跡取りであり、頼朝も三男だったが正室腹で跡取りだった。正室・高階氏が少なくとも四人の男子を産んでいるのに、妾腹の男子をわざわざ義家が跡継ぎに指定したと考えるのは、無理があるのではないだろうか。

 また、上の①によると、源義親の子供は、「長男 源義信 對馬太郎、次男 源義俊 對馬次郎、三男 源義泰 對馬三郎、四男 源義行 對馬四郎、五男 源為義 六条判官、六男 源宗清」である。このように、四男は義行で、五男は為義である。この順番が通説である。歴史の文献は、間違いや食い違いも多いので、中には四男と五男の順を逆に書いている文献もあるかも知れない。仮にあったとしても、角田氏がそれを取り上げて、通常の順番の方「四男 義行、五男 為義」を否定して、「四男 為義、五男 義行」とみなして、更に、母が違えば別々に数える現代の数え方を、昔の、母が違っても一緒に数える時代に当てはめて、「五男の義行が対馬四郎と呼ばれたのは、四男の源為義が妾腹だったからだろう」と主張するのは、明らかに変ではないだろうか。

 

 よって、これらのwiki書き換えは、藤原派の人間が、源頼朝の祖父・源為義の母が継体王朝の末裔である高階氏であることを否定しようとして、行ったのではないか、と私は考える。よほど、藤原派は、本当の天皇家の末裔である高階氏の血筋を否定したいのだと思われる。その根拠は次の①~⑥の6つある。順に述べていこう。

 

①「源義親」(2011118日時点のwiki)(書き換え後)には、「義親の正室は肥後守・高階基実の娘であるが、義父の基実は義親の乱行により肥後守を罷免され、贖銅の刑を科された。」とあるが、娘婿の乱行により罰を受けるなんてことがあるのか。やはり、高階氏の家の歴史と源義親の謀反との間に、何か因果関係があることを示唆するのではないだろうか。

 

②保元の乱では、為義は崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の義朝の手で処刑された。その時、父・為義だけでなく、その四男・頼賢、五男・頼仲、六男・為宗、七男・為成、九男・為仲が同じく義朝の手で処刑された。降参せず、東国下向を主張し、父達と別れていった八男・為朝だけが生き残った。

 父と弟達の首を自らの手で切ることは、後白河天皇の厳命だった。自分の手柄を全て捨ててもいいから、と義朝は後白河に助命を頼んだが、無視された。しかも、自ら降参して来た者を、処刑するとは…。酷い。やはり、後白河天皇は桓武王朝の血筋ではなく、藤原王朝の血筋だったから、このように残虐だったのではないだろうか。そう思えてならない。このことは、『清和源氏の全家系3―東国源氏の京都進出』奥富敬之(新人物往来社 1989年)94-98頁に詳しく書いてある。この戦には直接的には関係のない、十四歳の乙若丸を筆頭とする、幼い四人の弟達もみな首を切られた。為義が、四人の幼き者の生命を助けよ、彼等四人育たば、よき郎党百人には換えまじきものなり、と言い残した為義の幼い息子達である。このように、戦に関係のない、幼い子供まで皆殺しにした。義朝にとっても弟で、しかも戦に全然関係ないのに、殺させたのである。理屈に合わない。

 これは、継体王朝の血を引き、藤原王朝に刃向かう可能性のある人間の血筋を皆殺しにして絶やそう、とする藤原王朝の邪悪な意図を感じる。

 長屋王の変の時、長屋王の濡れ衣の罪とは関係がないのに、長屋王の正室・吉備内親王やその間の子供達まで殺されたことと同じである。

 その時、長屋王・吉備内親王の孫である磯部王がまだ2歳で、あどけなく幼いので、この子だけが命を奪われずにすんだ。その末裔が高階氏である。残虐非道な藤原氏は、幼い磯部王を殺さなかったことを悔やんでいる。継体王朝を滅ぼした百済王族の朝廷に対して義憤を感じ、反乱を起こした源義親と、高階氏との間に生まれた源氏の棟梁・源為義の血筋を絶やそうとしたのではないだろうか。源氏の棟梁・源為義の背後に、自分達藤原氏が滅ぼした、日本の本当の天皇家・継体王朝の姿を見ていたのではないのか。

 

③「高階氏は、長屋王と吉備内親王業平の子孫ではなく、斎宮・恬子(やすこ)内親王と在原業平が密通して生まれた男子を、峯緒が自分の養子にして跡を継がせた」という変な説がある。これもまた、藤原氏が「嘘を百回言えば本当になる」精神で作った捏造話だろう。

「高階氏」の魚拓

http://megalodon.jp/2012-0610-1413-52/dictionnaire.sensagent.com/高階氏/ja-ja/

によると、「峯緒は伊勢権守となり、斎宮・恬子(やすこ)内親王に仕えた。一説によれば、内親王と在原業平が密通して生まれた男児を引き取り、師尚と名付け、自らの跡を嗣がせたという。以後、高階氏の人々は伊勢神宮に参拝することを控えるようになる。尤も、この「師尚隠し子説」は事実無根という説も根強い。」とのことである。

 また、「成忠の時に、娘・貴子が藤原道隆の正室となり一条天皇の中宮・定子を産んでにわかに繁栄する。しかし、定子の生んだ敦康親王の即位は藤原道長に妨害され、成忠の子孫は中関白家と共に没落する。藤原行成が高階氏の血を引く敦康親王の即位は、伊勢神宮の怒りを買うと進言したことが大きな要因となった。」とある。

 「■日本史には、本当のことであろうと思われる妥当な通説と、藤原氏が作った、あるはずもない真っ赤な嘘の二通りがあることが多い」で、私は、「日本史には、本当のことであろうと思われる妥当な通説と、藤原氏が作った、あるはずもない真っ赤な嘘の二通りがあることが多い。」と述べた。

 藤原氏が作った、あるはずもない真っ赤な嘘の一つが、高階氏=斎宮・恬子内親王と在原業平の子孫」説である。この嘘を繰り返して主張することにより、事実ということにして通用させ、高階氏の血を引く敦康親王の即位まで阻むとは。。。本当の天皇家を汚い手を使って滅ぼした藤原氏が、いかに、本当の天皇家の末裔の血筋を恐れているかが分かる。

 

④上記のように、wikiで、為義が義親と高階氏の間の子ではなく、本当は義家の四男だ、(つまり、高階氏の血は引いていない)ということに書き換えてしまった。

 

⑤更に、それだけで十分なはずなのに、そのwikiには更に、為義が仮に義親の子であったとしても、正室腹ではなく、妾腹なのだ、とご丁寧に書き加えてあった。どうしても為義に高階氏の血が流れていることを否定したいという藤原氏のしつこい執念がうかがえる。

 

⑥更に、それらよりも話は遡るが、高階氏の祖である桑田王が、正室・吉備内親王を母とするのではなく、石川夫人を母とする、という説がある。これもまた、高階氏の血筋を出来るだけ本当の血筋よりも下に見せ掛けようとする、藤原氏による、下らない工作ではないだろうか。他の3人の同母兄弟にはそんな説はなく、高階氏という子孫を残した桑田王だけ、そのような変な異説があるのである。その説を通用させれば、長屋王の変で殺されずにすんだ、妃:藤原長娥子の産んだ3人の異母兄弟王子達の子孫よりも、高階氏の方が血筋が下ということになるから、それを狙ったのだろう。藤原氏は醜い、としか言いようがない。

 

「長屋王 血縁」の魚拓 参照

http://megalodon.jp/2012-0610-1421-35/www.weblio.jp/wkpja/content/長屋王_血縁

 

 藤原氏は、継体王朝の末裔・高階氏の血筋、及び、源頼朝が引く高階氏の血筋をなかったことにしたい、実際よりも下の血筋に見せ掛けたいと思う余り、何重にも何重にも、嘘の異論を作って、定着しようとしてきたわけなのである。

 藤原氏の本家は、その歴史捏造、血筋捏造のやり口を、在原業平(825年-880年)の時代頃から、今年2012年になるまでゆうに1100年以上、ずっと一貫してやり続けているのである。嘘付き一族の血は争えない。

 たとえ1000年経っても、藤原氏本家の嘘付きの血筋の性質は、藤原氏こと宮内庁と、藤原系政治家が、変わらずに今も受け継いでいる。「血筋が尊い」「血筋が尊い」「血筋が卑しい」「血筋が卑しい」と藤原教のお経を唱え、血筋の捏造をする。それだけである。