ウィキペディアの書き換え前・後 対比表とリンク

 ウィキペディアの歴史上の人物の項は、いつの間にか削除されたり、書き換えられたりする。私が以前読んだ時とは全く違った内容になってしまったものもある。ここに、その内容の書き換え前と後の対比を載せておこう。wikiの魚拓は取ることが不可能だが、その他の辞書から魚拓を取ったものは、そのリンクを載せておく。

 

●源重遠 ― wikiから削除された

・「源重遠」の魚拓 (削除前2008924日時点のwikiと内容が同じ)

http://megalodon.jp/2011-0710-2127-24/puci.jp/article/%8C%B9%8Fd%89%93/

・「源重遠とは - goo Wikipedia (ウィキペディア)」削除中の魚拓 (削除の証拠)

http://megalodon.jp/2011-0710-2133-12/wpedia.goo.ne.jp/wiki/

 

●源重貞(源重定) ― wikiは大幅に書き換えられた

・「源重貞」の魚拓 (書き換え前2011111日時点のwikiと内容が同じ)

http://megalodon.jp/2011-0927-1942-43/puci.jp/article/源重

・「源重貞 - 暇つぶしWikipedia」の魚拓 (書き換え後wikiと内容が同じ)

http://megalodon.jp/2011-0710-2147-10/yomi.mobi/wgate/源重貞/

 

●源重成

・「源重成」の魚拓 (2011111日時点のwikiと内容が同じ)

http://megalodon.jp/2011-0927-1956-40/puci.jp/article/源重成

 

wiki「源重遠」の削除についての感想

 2008924日時点には、「源重遠」はwikiに存在していたが、2009425日時点で「この記事は初版投稿者による著作権侵害が疑われています。」というお知らせが追加表示されていた。その後、20099月、私はブログ「日本人総清和源氏化計画」を作って、藤原氏と今の天皇家が百済王家の血筋であることや、重遠が私の先祖かも知れないことを書き、2009103日にそのブログを完成させ、その翌日に、自分の所属する、フォトリーディング集中講座受講者から成るメーリングリストに流した。その後だいぶ経ったとある日、wikiで「源重遠」を探したら、ショックなことに、削除されてなくなっていたのである。

 「Wikipedia:コメント依頼/YOSHI438/著作権害状況調結果」20091028 () 17:13 (UTC))によると、「調査されていないが、状況として侵害の蓋然性が高いもの(削除依頼対象 1435件)」の中に「276.源重遠」とあった。まだ調査されていないから削除すべきではないのに、削除されたのである。

 2009425日時点で著作権侵害に関するお知らせが追加表示されていたことから、20099月に作った私のブログ「日本人総清和源氏化計画」とは関係なく、削除対象とされる恐れがあったようだ。しかし、2009104日にブログのことをメーリングリストに流して、1028日或いはそれ以降にwikiの「源重遠」が削除されたというタイミングを見ると、決して無関係とは言えない気がする。藤原系の人達の手による削除ではなかったか、という気がする。

 そう考える根拠として、藤原系の人達によるこの手の嫌がらせを、私は今までに二回、経験しているからである。時系列で言うと、一回はwikiの「源重遠」の削除より前のことで、一回は後のことだったが。

 まず、今まで述べていなかったことだが、wikiの「源重遠」の削除より前のことについて述べよう。ブログ「日本人総清和源氏化計画」の作成よりも前のことだが、藤原氏と天皇家の本当の血筋が百済王族であることについてメーリングリストに流した時、やはり、そのメーリンググループに所属する藤原系と思われる人から、メールを通じて、言論弾圧的な嫌がらせを受けた。

 次に、wikiの「源重遠」の削除より後のことについて述べよう。「その後にも、幾つかの出来事がタイミングよくった。これもまた神様のお計らいだろう」でも述べたように、私は2010412日にブログ記事「■キム・ユナ、浅田真央に続き、藤原氏と今の天皇家の家系図が真っ赤な嘘であること日本国民に気付かせるために現れた、第三のキーパーソン! 織田信成!」を、自分の所属する、フォトリーディング集中講座受講者から成るメーリングリストに流した。そうしたら、4月末頃、そのメーリンググループに所属する藤原系と思われる人達が管理者に要請して、私は、メーリングリストからいきなり無断で除名されるという嫌がらせを受けた。

 「二度あることは三度ある」ともいうし、以上の理由により、wiki「源重遠」の削除も、藤原系の人達の手にによるものではなかったか、と思えてしまうのである。

 「藤原氏と今の天皇家の本当の血筋が百済王族であることを述べると、すぐに(一ヶ月以内に)藤原系の人間から言論弾圧的な嫌がらせを受ける」。こういうことがこのように実際に何度かあったのである。日本が息苦しく、閉塞感の強い国であるのは、この手の、天皇制の絶対支配者・藤原氏による監視のせいではないだろうか?

 

 徳仁親王が、天皇家が本当に万世一系かどうか歴史研究しようとしたら、明仁氏が激怒して止めた、とどこかで読んだ。「もし天皇家の本当の血筋を知って発表したらまずい」と思ったからではないだろうか。そして支配者・藤原氏が明仁氏にそのように指図しているからではないか。

 紀元前660年旧正月(211日)に神武天皇が即位したという捏造話にちなんで、(藤原系臭い)佐藤内閣が211日を日本国の建国記念日とした行為に、聡明だと評判高い三笠宮崇仁親王が強い疑問を投げかけた時、右翼から、「余計なことを言うな」とばかりに圧力と嫌がらせを受けたと聞く。

 皇族は万世一系に疑問を抱いたり、天皇家の本当の血筋を研究しようとすると、藤原氏や、藤原系の右翼に脅迫されたり、嫌がらせを受けたりするのではないのか。自分自身の血筋のことを研究したり、触れたりするだけで人から嫌がらせを受けるなんて、通常ありえない。天皇家の血筋は、まるで、皇族自身のものではなく、藤原氏の私物扱いである。藤原氏は皇族を抑圧している。天皇制をやっている張本人は、皇族自身ではなく、皇族に圧力をかけたり、気に入らない皇族をいじめたりしながら、天皇家を支配している藤原氏以外にあり得ない。

 天皇制の支配者・藤原氏が、皇族や一般人の思想や言論に圧力をかけ、監視し、歴史の真実探究の機会をことあるごとに奪い、嘘を押し付け、日本の息苦しさ、閉塞感を作っているのではないのか。

 

wiki「源重貞」の書き換えについての感想

 「源重貞」(2011111日時点のwiki)(書き換え前)には、「治承4年(1180年)の以仁王の乱に際して、源頼政に従い反平家の兵を挙げたが敗北。領地のある美濃国を目指す途上で死去した。」とある。兄・重遠が1185年に80歳を超えていたので、重貞も1180年時点でかなり老齢だったはずなのに、旗挙げに参加するなんて凄いつわものだ。

 しかし、「源重貞」(2011710日時点のwiki)(書き換え後)には、1180年の反平家の旗挙げには参加せず、源氏のくせに平家に追従してダメで情けない人だった、というような「清和源氏の勇者」、転じて、「清和源氏のくせにダメな人」という全く別人のイメージの記述に書き換えられている。しかも111日時点(書き換え前)では短く簡潔に書かれていたものが、710日時点(書き換え後)では、長々だらだらと不必要なまでに詳しく書き換えられている。書き換え後のwikiには、「『延慶本平家物語』には重貞が六波羅に駆け込んで反乱軍が迫っていることを伝える場面があり、作者は源氏にも関わらず平家に追従していると非難しているが、」「平氏が都落ちをした後も、重貞はそのまま都にとどまった。」とある。しかし、同じ人物が反平家の兵を挙げる(書き換え前)一方で、平家に反乱軍が迫っていることを伝える(書き換え後)ということがあるのか。平氏が都落ちをした後、死んでこの世にいない(書き換え前)一方で、そのまま都にとどまる(書き換え後)ことがあるのか。それぞれの記述に対して、同名の別の人物のような気がするが、気のせいか。身分も年齢も違うような気がするが・・・。前者は「年老いた将」、後者は「それよりは若い、単なる一兵卒」のような気がするが・・・。

 

 私は、書き換え前の内容の方が、親・清和源氏でもなく親・藤原でもない、ニュートラルな人の手による内容だと思った。書き換え後の内容は、藤原派の人達による、尾張源氏のイメージダウン目的のものではないか、と疑問を抱いている。

 

 だから私は、書き換え前の内容を参考にしている。

 

 また、簡潔な文章の「源重遠」(2008924日時点のwiki)(削除前)には、源重遠・重貞兄弟の家が源氏譜代の家臣である、という非常に重要な情報が書かれていた。しかし、ずるずると無駄に冗長な文章の「源重貞」(2011710日時点のwiki)(書き換え後)には、「作者は源氏にも関わらず平家に追従していると非難しているが、重貞の家は河内源氏とは別系統であり、平氏に対してもあくまで協力関係であって従属していた訳ではなかった。」とある。「源重遠・重貞兄弟の家が源氏譜代の家臣であった」という重要な事実を、読み手を騙すために、故意に隠蔽しているのではないだろうか。そのためにも、その事実の書かれた「源重遠」(wiki)を削除したのではないだろうか。これは私の考え過ぎだろうか。

 また、ここで大きなポイントとなってくるのが、「作者は源氏にも関わらず平家に追従していると非難しているが、」だ。作者は重貞を非難する理由として、「源氏譜代の家臣であるにも関わらず平家に追従している」ではなく、「源氏にも関わらず平家に追従している」と述べている点である。

 尾張源氏の祖・源重遠とその兄弟の家は、源氏譜代の家臣かつ清和源氏だ。しかし、源氏譜代の家臣じゃない清和源氏の方が圧倒的に多いし、その方が一般的だ。源氏譜代の家臣かつ源氏なのに平家に追従していたら、単なる源氏が平家に追従していた場合に比べて、もっともっと駄目だと思う。

 それにも関わらず、「源氏譜代の家臣かつ源氏」なのに、と非難せずに、「源氏」なのに、と作者が非難しているということは、作者が非難している「情けなくて下っ端っぽい源重貞」は、源重遠の弟の勇者・「源重貞」ではなく、単なる源氏でしかない別人の「源重貞」と考えられるのではないだろうか。

 また「源重貞」だけ、ネット上を検索すると、たまに、源重貞(源重定)と二通りの漢字が書かれていることも気になる。色々な資料には、間違えて「源重定」と書かれていることもあったのだろう。それなので、余計に、同じ名前の読みの「みなもとのしげさだ」という源氏が他にもいたら、故意に、あるいは、故意ではなく、混同されることも充分ありうるのではないだろうか。

 ちなみに、『朝日 日本歴史人物事典』(朝日新聞社編 朝日新聞社 1994年)によると「源重定(重貞)」は、要約すると「1180年、反平家の軍勢に加わったが、敗れて美濃国にて死去」と書いてあった。『日本人名大事典 6 マテ~ワ』(平凡社 下中邦彦編 1979年覆刻版)にも大体同様の内容が書いてあった。

 また、源重遠の家が源氏譜代の家臣であることは、様々な方面からうかがえる。例えば、重遠の室が源義家の娘であり、重遠の孫・足助重長の室が源為朝の娘であることなど、源氏嫡流の娘を嫁にもらっていることからもうかがえる。実際、以下の魚拓によると、源(浦野)重遠の長男・浦野重直の六男・足助重長は、「父祖に続き河内源氏の嫡流に臣従したと考えられ、」とある。

 

●足助重長

・「足助重長」の魚拓

http://megalodon.jp/2011-1011-1718-07/puci.jp/article/足助重長