★自己紹介

 みなさん、こんにちは(・3・)ノツ。このブログでの私のニックネームは「自分流」。

 これは、「清和源氏心実流 旗挙げ!」の続編だよ。まだ読んでない人は、左のリンク集にあるから、それを読んでからこのブログを読んでね。

 下の「★目次」の中にある各編は、リンクをクリックして読んでね。

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★目次

このリンク先「清和源氏心実流 旗挙げ!」を読んでから、このブログを読んでね

 

■清和源氏の『自分流』の血筋編■

■清和源氏の『自分流』は、源頼朝同様、天武天皇の末裔かも知れない

■『自分流』の先祖調査から分かったこと

■清和源氏の『自分流』の血筋の中間まとめ

■尾張徳川家筆頭家老・成瀬氏の血筋について

■私が、継体王朝の本家本流に最も近い血を引き、清和源氏の棟梁の本家本流に最も近い勇者の血も引いている(成瀬氏の末裔)と判明させることのできる可能性は30%位だろう

■継体王朝の本家本流に最も近い血を引いている(高階氏の末裔)と判明させることのできる人の割合は、全国でわずか800分の1くらいだろう

■清和源氏の『自分流』の血筋のまとめ

 

■神様のお計らい編■

■全ては神様と継体王朝と清和源氏のご先祖様達のお計らいか

■父方のご先祖様の名前の「清」、母方のご先祖様の名前の「源」・「礒」、私の本名に含まれる「みなもと」の4文字。これらの名前の妙は、私が清和源氏の血を引き、私の背後に、清和源氏のご先祖様軍団が控えておられることを表すために、神様がお計らいになったのではないだろうか

 

■尾張源氏の一族編■

■母方の家のご先祖様の名前に入っている「源」と「礒」の字について

■尾張源氏の祖・源重遠とその親族について述べよう

■やはり、私の血筋の中で一番重要になってくるのは、母方の家の血筋

 

■鎌倉幕府創設の原動力編■

■源義親の怒りは、正室の高階氏から、百済王族が恩を仇で返し、継体王朝を滅ぼして乗っ取り、継体王朝のふりをしているという事実を教えられ、義憤を覚えたからではないのか? その怒りが、後に曾孫・源頼朝が鎌倉幕府を作ることとなった、真の原動力なのではないだろうか

 

■藤原すり替え王朝編■

■今の天皇家は、百済王氏ではなく、藤原氏の分家の血筋だった!

■滅ぼされていた桓武王朝:鳥羽天皇から始まった藤原王朝

■鳥羽天皇の本当の父は藤原公実、母はその側室・藤原光子だろう

■天皇家の血筋交代のまとめ

■藤原すり替え王朝においては、血筋のごまかしは当たり前

■藤原すり替え王朝においては、嘘・ごまかしは当たり前。この嘘まみれの天皇制は、国家権力(政治家・官僚)のど真ん中に位置している。それが今日の日本の国家権力(政治家・官僚)の「嘘・ごまかしは当たり前」の思想に繋がっているのではないのだろうか

■藤原氏の「人の命を粗末にする」という悪しき思想もまた、嘘まみれの天皇制を通じて、国家権力(政治家・官僚)に浸透しているのではないだろうか

 

■藤原氏が日本人に押し付けている三大嘘編■

■日本列島を覆う真っ黒い雨雲と化している、三大嘘

■国家権力(政治家・官僚)に浸透している、藤原氏の「嘘・ごまかしは当たり前」と、「人の命を粗末にする」という思想が、福島原発事故の真の原因だろう

■「人間は騙され易い ではどうすればよいか?」拡散用文書

 

■日本を戦争に引きずり込んできた藤原氏編■

■白村江の戦い、秀吉による朝鮮出兵、盧溝橋事件を口火とした、大東亜戦争。日本から戦いを起こした対外国戦争は、全て百済王族・藤原氏によって引き起こされた

■白村江の戦い決戦直前に逃げ出した、無責任な藤原鎌足こと百済王子豊璋

■藤原仲麻呂による新羅征伐計画

■秀吉をそそのかして大軍を出兵させ、中国と朝鮮の征服をもくろんだ藤原氏

■二・二六事件等関係者の大赦を考えていた近衛文麿。日本の中国侵略を推し進めたのは、近衛文麿だろう。なぜ近衛文麿が東京裁判前に自決したのか。その謎が解けた

■近衛文麿は、昭和天皇のみならず、東条英機をも暗殺しようとしていた

■近衛が自決しなければ、東京裁判で戦争の第一責任者となったのは近衛文麿、第二が東条英機だったろう。アメリカ、ハル国務長官に正体がばれていた近衛文麿

■平成の現代でも、中国、朝鮮への憎しみを口にする、藤原系右翼

■本当の戦争責任者である近衛文麿をかばうためには、「本当の戦争責任者は誰か?」という議論が日本国内で活発になったら、まずい。だから「昭和天皇に戦争責任がある」と言った長崎市長を右翼は狙撃したのではないのだろうか。右翼の中心核の正体は、天皇狂信者の仮面を被った、藤原の家臣ではないだろうか。つまり、右翼の中心核の正体は、1300年以上に亘って、気に入らない皇族をいじめたり殺したりしてきた、藤原氏そのものではないのか

 

■本家の血筋の性質はほとんど変わらない編■

■たとえ1000年経っても、本家の血筋の性質はほとんど変わらない

■血筋は争えない。よって、天皇家は大きく3つの血筋に分けられる、と考えるのが自然

■嘘は百回言っても嘘のまま

■本当の誇りは、血筋ではなく、心に対して持つべきだ

■百済王族・藤原氏が無理矢理続けている同和差別は、実は、新羅系差別だった

■藤原氏は皇族を殺すのが好きな一族だ。藤原氏に殺された疑いのある皇族一覧

■「誰が天皇になるかは、神が決める」と言いながら、いじめ・暗殺・赤ん坊すり替え・その他汚い手を使って、天皇を決めてきた藤原氏。「天皇は神の子孫」と言う藤原氏。即ち、藤原氏は「誰が天皇になるかは、神である藤原氏が決める」「天皇は神である藤原氏の子孫」と公言してきた一族だ

 

■藤原すり替え王朝をなくそう編■

■天皇制の支持者は、藤原真理教の信者

■藤原氏に滅ぼされた継体王朝のためにも、藤原すり替え王朝を無くしたい

 

■藤原氏による歴史捏造は現在進行中編■

■「『部落差別は徳川幕府が作った』という説は、藤原氏が作った可能性が高い」という私の考えは当たっていた

■誰が天皇になるのか決める権利=皇族をいじめたり、暗殺したりする権利=藤原氏の権利

■天皇制は、藤原氏が神に成りすます為のペテンだ。「藤原=悪」 対 「清和源氏=普通」の戦いが始まっている!

■ウィキペディアのおかしな書き換えなどによる、藤原氏による歴史捏造と日本人騙しは、現在進行中

 

■番外編■

■女性宮家創設と天皇制への意見について

 

■保元の乱、平治の乱、承久の乱、尾張源氏編■

■尾張源氏の源重成、源重遠、源重貞3兄弟

■保元の乱後、鎌倉幕府創設までの、尾張源氏3兄弟の苦悩

■尾張源氏と源家の関係

■源家が三代で滅びた後の尾張源氏

■父方の家も、承久の乱で京方で戦った清和源氏満政流の一族らしい

■私の母方の家と父方の家の共通性

■私の母の実家と重遠の直系子孫・山田兼継一族の共通性

■私の母の実家が、源満政の直系である、源重遠の直系子孫の家だといいな

 

■母の実家が尾張源氏の本家かも?!編■

■母の実家のご先祖様はどこから来たのか?

■承久の乱後の尾張源氏

■織田信秀(信長の父)の家臣になった尾張源氏

■岡田重孝・浅井長時・津川義冬の3家老が暗愚な主君・織田信雄に謀殺された事件について

■尾張源氏の本家は、岡田重孝の直系子孫だろう

■岡田重孝の直系子孫は、一体どうなったのだろう? 武家をやめて農家になったのではないか?

■関ヶ原の戦いは、戦に参加して手柄を立て、家を再興するラストチャンスだったのだろう

■以前にも述べたが、尾張山田氏の直系・山田兼継一族は承久の乱で負けた後、再び鎌倉幕府の御家人になるまで、春日井市の辺りで農業をしていたのでは?

■岡田重孝の直系子孫も、かつてご先祖様が承久の乱で負けた後、移り住んで一時的に農業をしていた春日井市辺りに、ご先祖様を懐かしんで、移り住んで農家になったのでは?

■岡田重善・重孝親子が居城としていた星崎城は、実は、ご先祖様・山田重忠(承久の乱に参戦)が築城して住んでいた城だった。ご先祖様を懐かしんで、岡田重善が住むようになったのでは?

■母の実家は北の方から春日井の地に来たらしい。母の実家は岡田重孝の直系子孫かも知れない

■地元に貢献した母方の実家のご先祖様

■母の実家が、「源」と「礒」の字を代々、名前につけるようになったのは、岡田重善以降、「善」と「重」の字をつけたことに影響を受けたのではないだろうか?

■母の実家の先祖が持っていた、農家になる以外の選択肢は?

■犬山城城主成瀬家の庶流・大農家の成瀬家が一目置いてくれた(?)母の実家

■尾張源氏の本家の苗字について

■私の母方の家と父方の家の共通性2

 

■母の実家が尾張源氏の本家だと仮定しよう編■

■母の実家が尾張源氏の本家(嫡流)だと仮定して話を進めていこう

■苗字に取り戻した「山」の字

■源義朝の身代わりになって死んだのは、本当は、浦野重直ではないのか?

■母の実家を自分の家のように思っている私

 

■母の実家:源満政の嫡流・尾張源氏の本家編■

■母の実家は、ゆかりの土地・尾張地方の土地が欲しかった?

■尾張には、旗本領の知行地がなかった

■岡田善政の生母

■揖斐岡田氏、清水岡田氏、南方岡田氏

■弟に分知することの好きな、兄弟愛の強い一族・旗本岡田家

■旗本の岡田氏と母の実家、どちらが尾張源氏の本家か?

■岡田善政の生母2

■地名ではない、母の実家の苗字

■母の実家は基本的に一夫一妻と思われる。しかも、1000年父、息子一系

■清和源氏のY染色体

■「天皇家と藤原氏は血筋が尊い、日本土着民は血筋が卑しい」は嘘っぱち。血筋に尊い、卑しいはない。天皇家の大嘘の2700年、側室制度つきの嘘っぱちの万世一系の家系図は、意味がない

■「嫡流」、「嫡流子孫」、「庶流」、「庶流子孫」、「単なる子孫」、「子孫」について。「直系親族」、「傍系親族」と直系子孫、傍系子孫、直系先祖、傍系先祖の定義

■母の実家が、満政から曽祖父の34代まで父、息子相続で続いたことは、とても偶然とは思えない

 

■補足編■

■子孫は先祖にどれくらい似るか?

■霊界から見た天皇の祭祀

■尾張地方には、日本の中心となるような、何か重要な役目があるのかも知れない

■尾張源氏は、尾張の地に計3回、やってきた(今現在、私がいる)

■尾張源氏の祖・重遠が移り住んできた春日井郡「浦野邑」は、母の実家の辺りだった!

■厳密に言うと、母の実家は「浦野邑」のすぐ近所(隣町程度)。だが、私が生まれた助産院は名古屋市北部の、「浦野邑」その場所ズバリにあったようだ! これは偶然ではない。清和源氏心実流のために、私は生まれたのではないだろうか?

■尾張源氏の嫡流は、信仰心が篤かったと思われる

■日本人に、教育を使って、まんまと信仰心を捨てさせた明治政府

■天皇制は、オウム真理教同様、カルト宗教ではないのか

■鎌倉幕府に口ききをしてくれたのは、尾張源氏の小川氏かも

■信用できない後鳥羽上皇の人間性

■先祖の影響を受ける我が一族

■農家になった時に作ったと思われる、母の実家の苗字

■岡田重孝の子・重政は、苗字を「山田」から「岡田」に変えた、七代前の先祖・重政の生まれ変わりかも

■源為義の母・高階氏の血筋

■清和源氏の『自分流』の血筋のまとめ2

 

■本家の血筋の性質はほとんど変わらない編2■

■ハプスブルグ家

■ヴィクトリア女王の子孫は血友病多し

■ダイアナ元妃の伯爵家

■尾張源氏の一族の血筋の特徴

 

■三種の神器の役割編■

■壇ノ浦の戦いより前に失われていた三種の神器

■「天武王朝の血を再び天皇家に引き入れるまでの中継ぎ天皇家」としての、桓武王朝の役割

■「人間が(藤原氏によって)粗末にされる天皇家ならいらない」。三種の神器、焼失の理由

■霊人達の起こす霊現象

■三種の神器は、天皇家が藤原氏に乗っ取られるのを防いできたのではないだろうか?

 

■血筋よりも心が大事編■

■継体王朝(本当の天皇家=大和民族の天皇家)は、百済王族の心を持つ天智天皇のせいで桓武王朝(百済王族)に乗っ取られた。桓武王朝は、藤原氏の心を持つ白河天皇のせいで藤原すり替え王朝に乗っ取られた

■大和民族の心を持っていた光仁天皇。百済王族の心を持っていた桓武天皇。百済王族の血は逆に光仁天皇の方が桓武天皇より濃い。民族は、血筋ではなく、心で決まる

■継体王朝までの本当の天皇家は、血筋にかかわらず、大和民族である。桓武王朝は、大和民族か百済系朝鮮民族か曖昧である。藤原すり替え王朝は、百済系朝鮮民族である

■どの民族でも、その中の優れた人物(聡明で心が温かく有能)はお互いに似ているはずだ。よって、どの民族でも成長していけば、優れた人間性となり、人間性が互いに似通ってくるだろう

■日本は8割以上が大和民族なので、人間的成長の極めて遅れている百済系朝鮮民族・藤原氏が自らの正体をごまかし、国民の意思を無視して、強制的に天皇制を続け、それを利用して世襲で国家権力を握り込んでいることは、忌むべきことだ

■日本は多民族・雑種国家。大和民族、百済系朝鮮民族、新羅系朝鮮民族、アイヌ人、琉球人(沖縄人)は何で決まるか? 心で決まるだろう

■大和民族(=和人=倭人)の定義は何か?

■百済系朝鮮民族・藤原氏が天皇制を通じて日本を支配することは、大和民族から大和民族らしさ(大和民族の良さ)を奪うことに繋がる

 

■「愛知県」は、心の三種の神器編■

■なぜ三種の神器に大きな霊的な意味があると私は考えたのか

■日本の中心に位置する愛知県。「愛知」という県名

■私は愛知県の清和源氏の中心人物(かも)

■「愛知県」という名は、心の三種の神器「愛、叡智、力」を表す

■「愛知県」は、愛、叡智、力の順で大事であることをも意味する

■「剣」ではなく「県」である意味

■地球上には、愛も叡智も持たないくせに、力だけ持つものは多い

■名前の不思議。「愛知県」という名も、尾張源氏にゆかりがある。尾張源氏嫡流の山田氏の住んでいた山田郡は後に廃止され、春日井郡と愛知郡に分割編入された。愛知郡から「愛知県」の名は取られた

■本当の天皇家と清和源氏は、霊的に同じ流れだと思う

 

■清和源氏心実流の思想とキリスト教編■

■清和源氏心実流の思想「感謝、親切、工夫、成長、幸福」とイエス・キリストの教えの中心部分は、全く同じだろう

■イエス・キリストをはじめとする、地球を見守る高級霊達が、私の清和源氏のご先祖様軍団(清和源氏満政流)を通じて、清和源氏心実流の思想を我々にもたらしたのだろうか? これはこじつけ過ぎだろうか?

 

■1300年に亘る、兄弟の物語

■まるでアニメ『北斗の拳』の「北斗2000年の歴史」のような、兄弟の歴史がここにある!

■その1:1300年に亘る、兄弟の物語。百済王子豊璋と善光。【悪の兄・豊璋の嫡流子孫、藤原氏】 vs. 【善(普通)の弟・善光の嫡流子孫、百済王氏】

■その2:源満仲と満政。【悪から善(普通)に変わった兄・満仲の嫡流子孫】 vs. 【善(普通)の弟・満政の嫡流子孫(後の尾張源氏)】

■その3:岡田重孝と善同

 

■1300年に亘る、悪対善の物語編■

■まるで漫画『ジョジョの奇妙な冒険』(荒木飛呂彦)のよう

■これが『自分流』の家系図だ

■『自分流』の血筋について補足

 

■霊的知恵と物質的知恵編■

■スウェデンボルグの述べる「生命の樹」と「智恵の樹」について。「生命の樹」の実に象徴される「意志・善行・愛情」を「霊的知恵」と呼び、「智恵の樹」の実に象徴される「理解・認識」を「物質的知恵」と呼ぶことにしよう

■安保闘争

■左翼の人達は「物質的知恵」(理解・認識)と、「霊的知恵」(意志・善行・愛情)をどの程度持っているのか。「高級霊に導かれて手に入れる物質的知恵」について

■霊的知恵と物質的知恵のある人、霊的知恵はあるが物質的知恵のあまりない人、霊的知恵がなくて物質的知恵のある人、霊的知恵も物質的知恵もない人

 

■民主主義編■

■民主主義と独裁、どちらがいいのか?

■理想を持った、「フランス革命」、「日本の戦後・左翼系平和主義」、「清和源氏心実流」。「愛と叡智と力」をどの程度持っているか。それぞれの性質の比較

■理念の順番の大切さ

 

■藤原氏による、日本土着民への迫害は現在進行中編■

■日本土着民が奪われた大切なものを、全て取り戻そう

■なぜ、私は天皇家と藤原氏の本当の血筋に気付いたのか。清和源氏のご先祖様の霊のお導きでは?

■「2012129日 女性宮家創設に関する言論弾圧事件」

■同様の言論弾圧事件:経済学者の植草一秀氏の手鏡事件、佐藤栄佐久・福島県前知事の汚職事件、名古屋の脱原発・関電弾圧事件。小沢一郎氏、村木厚子氏の事件も同じような臭いがする

■植草一秀氏は経済学者だが、私を犯罪者にでっち上げた天皇制の黒幕の手下「Gno Economists」氏も、経済学者かも知れない。日本が平成に入ってから経済が酷くなる一方なのは、このような言論弾圧、思想弾圧のせいである部分が大きいだろう

■藤原氏による皇族いじめ・皇族殺し・天皇すり替えを批判した鹿島曻氏の変死

■今では、ほとんどのマスコミが、藤原系組織(明治維新の立役者である長州藩出身者、薩摩藩出身者を含む)を中心とする、言論弾圧組織の支配下に置かれているようだ。この事実を国民の常識とせねばならない

■村木厚子氏の事件は民主党の石井一議員を犯罪者にでっち上げるためだった可能性あり! 先に述べた犯罪者でっち上げ事件の被害者達は、全て天皇制の支配者である藤原氏および藤原系政治家達にとって都合の悪い人達ばかりである可能性が高いことが判明した!

 

■藤原氏の正体編■

■藤原氏と藤原系の人間達の正体のまとめ。大和民族を騙し、大和民族の命を使って仇討ち戦争を何度も行ってきた卑怯な好戦一族・藤原氏

■藤原氏はユダヤ人かつナチスのようなもの。ユダヤ人きどりの百済系朝鮮民族・藤原氏。藤原氏のホロコースト対象は、大和民族をはじめとする日本土着民

■昔からよく聞く「百済人は日本人だ」「日本は百済だ」「百済人は血筋が尊い、新羅人は血筋が卑しい」という主張は、藤原系の人間が言っているのだろう

■朝鮮王朝を礼賛するテレビ番組、本

■カルト宗教の教祖は、しばしば陰で一夫多妻制をやっている。藤原ペテン天皇制はオウム真理教と同じく、陰で一夫多妻制をやっているだろう

■天皇になりたがりの一族・藤原氏。藤原氏の特徴を最もよく表す、あまりにも異常過ぎる「五摂家・五天皇家」

■ヤドカリ一族・藤原氏。カッコウ一族・藤原氏。他者になりすまし、パクるのは藤原氏の十八番。パクったのは継体王朝の「天皇家」の名前だけではなかった! 清和源氏までパクるとは! 藤原系政治家の会である自民党の「清和会」という名前!

■天皇を殺し、天皇をすり替える人間(藤原氏)が、天皇制の黒幕として日本国民を騙して支配するためにやっているのが天皇制。「天皇制を廃止すると日本が滅びる」というカルト思想を流布させている連中(藤原氏)が天皇制をやっている

■天皇家は藤原氏の分家。右翼の中心核の正体は、藤原氏そのもの。天皇家、藤原氏(宮内庁)、右翼は全部藤原氏から出ている。天皇制の正体は、天皇家・藤原氏(宮内庁)・右翼の三本の首を持つ、キングギドラ藤原氏

■日本国民の上に「(ありもしない)万世一系の天皇家」として君臨する、正体を隠した、百済系朝鮮民族・藤原氏

■竹島問題、尖閣諸島問題も、右翼系(藤原系)政治家が日本側から火をつけて、わざと煽ったのでは? 日本をまたもや百済の仇討ち戦争に引きずり込むための自作自演ではないか?

■「自分のいのちをなげうっても守るべき価値が存在する(お国のために死ね、という意味)」と言いながら、憲法第九十七条「基本的人権」条項の破棄を狙う、右傾(藤原系)政治家・安倍晋三首相。憲法第九十九条も「馬鹿国民はどうせ憲法に関して全くの無知だから騙せ」とばかりにひどい内容に。。。憲法第九十六条改正の目的は大日本帝国復活

■天皇制を「犯罪者でっち上げ・暗殺天皇制」と呼ぼう

■天皇制にとって都合の悪いことを言う人が天皇制の黒幕によって犯罪者にでっち上げられたり殺されたりするのは、「天皇制の目的は善」という命題が偽で、「天皇制の本当の目的は日本土着民族を滅ぼして日本列島を百済の国にすること」という命題が真である傍証

■藤原氏の庶流子孫で大和民族の人達

 

■清和源氏満政流から清和源氏心実流へ編■

■私の母方の実家は、清和源氏の最も古い家の本家だろう

■敵を知り、己を知れば百戦戦うとも危うからず

■母の実家は一夫一妻で1000年一系。藤原すりかえ天皇家は一夫多妻で900年途切れまくり

■全国で、我が祖・源満政の子孫は8千万人位だろう。清和源氏満政流は24万人位だろう。母方の嫡流先祖の尾張源氏・山田重満の号(本名の他に用いる名)は、日本人の代表的な名前「山田太郎」である。一方、今の天皇家の祖・明治天皇こと大室寅之祐の子孫は50人位(四世孫の代は30人位)だろう

■「今の天皇が百済王族(藤原氏)の象徴なら、清和源氏満政流こそ、代表的大和民族・代表的日本人ではないだろうか?」と思ったけど、やっぱり違う。清和源氏満政流の方が、大和民族の平均よりも心が純粋で頭がいい。大和民族の平均の方が、どうしてなのかは分からないが、邪悪に対して安易になびく。もはや大和民族の平均と歩調を合わせようと思わぬ。自分の心の中の理想の人物像と歩調を合わせる

■清和源氏満政流から清和源氏心実流へ

 

■清和源氏心実流のテーマソング編■

■「rise」は、神様が清和源氏心実流の思想のために、Origaさん、Tim Jensenさん、菅野よう子さんを通じて作られた歌なのではないだろうか?

■「rise」の内容解説:戦士、被告人、裁判官

■「rise」の内容解説:偽りの影との戦い

■「rise」の内容解説:痛み、涙

■「rise」の内容解説:stand or diewe rise or fall

■「rise」の内容解説:誤訳と思われる箇所を私が訳してみた

■「rise」の内容解説:生と死を追い越し、審判の日、灯り

■「rise」の内容解説:再び、stand or diewe rise or fall

 

■日本の源を育てる会編■

■「日本の源を育てる会」の立ち上げ

 

信用できる人間を信用するのが、我々の進むべき唯一の道編■

■部落には二種類あるのではないか? 同和部落(新羅系朝鮮人部落)と百済系朝鮮人部落

■かなり前から「官僚は悪」と叫ばれているが、悪の官僚の中心核は、百済系朝鮮民族ではないのか? 明治維新は、大和民族の徳川幕府から、百済系朝鮮民族(藤原氏、長州藩出身者、薩摩藩出身者)が政権を奪った事件。明治天皇こと大室寅之祐、安倍晋三の祖父・岸信介、その弟・佐藤栄作は、山口県(長州藩)の田布施村という朝鮮人集落の出身。小泉純一郎の父・小泉純也は鹿児島県(薩摩藩)の田布施村という、同名の朝鮮人集落の出身

■提案しよう。「日本の源を育てる会」を官僚の中にも広げて、「日本の源を育てる会 会員」の官僚を主に信用し、使っていったらいいのではないだろうか?

 

■霊的真

■魂、良心、命について

■あの世について

■神への道、地獄への道

■良心の細やかさ

■サイコパス(良心を持たない人たち)の良心は、本当に完全に消滅してしまったのだろうか?

■人生を無為に過ごすことも悪

1日後、2日後の自分も今日の自分と同じ自分と考えよう。他人も自分のように考えよう。他国も自国のように考えよう

■原発、安保と霊的知恵、物質的知恵について

■緑の園にいる高級霊人達、崖から落ちて落下中の地球人の霊達と、霊的知恵、物質的知恵

■霊的真理(相応の理)。知恵。正しい霊的知識、間違った霊的知識。正しい物質的知識、間違った物質的知識

 

■霊界と物質界編

■最後の審判、地獄界の構成要員、藤原氏の目的、サタンの正体、藤原氏に影響を与えるサタン

■洗礼者ヨハネは、清和源氏と何らかの霊的な深い関係があるような気がする

■藤原氏の中では、常に善良な人を邪悪な人が倒し、皇族殺し、皇族すり替えをした人間が常に主導権を握ってリーダーとなっていた。それゆえ、一族の無害化、善良化が1300年間、起こらず、一貫して邪悪な一族のままなのではないか? また、そうさせているのは、地獄界にいるサタンと、藤原鎌足(百済王子豊璋)のコンビではないのか?

■藤原氏にとって、「皇族殺し、皇族すり替え、皇族を犯罪者にでっち上げること」は、1300年間一貫して、常に手柄だ。藤原氏の中では、これらのことをした人間が常にリーダーとなる。秋篠宮嫡出子化は、皇族すり替えの亜種である。よって、これを実行した秋篠宮のバックが、今の宮内庁(藤原氏)のリーダーなのではないだろうか?

■悪はただ、それを愛さなければいい、というものではない。悪は憎まなければならない

■「霊界はある、神は存在する、守護霊が見守って下さる」と信じていた方が、様々な知恵を授かりやすい

■霊的知恵、あるいは、物質的知恵に導かれている人は、必ず、「天皇制を廃止しなければならない」ことを悟る。霊的知恵も物質的知恵も持たない人だけ、天皇制を支持したり、容認したりする

■「天皇家は万世一系である」という、敗戦以降、ほとんどの人に否定されている、藤原氏によるごり押しの主張の真偽を、DNA鑑定という物質的知恵で明らかにできたらいいな

■霊界研究には様々な説がある。アラン・カルデックによると、サタンでさえ、神が見捨てることはなく、救われる可能性は永久に残されている、とのことだ

■霊界研究者の意見の相違について

■天界にいる霊、地獄界にいる霊が物質界に生まれることはあるのか?

■地獄界の鎌足の右腕となっていると思われる、藤原氏の中の邪悪な人達

■イエス・キリストは地球人にとって唯一の特別な神霊か?

■喜びも怒りもない霊界とは、怠惰な生き方を表す南北ルートの類(たぐい)だろう

■やはり、サタンは人間の愚かさを象徴する、架空の存在かも

 

明治時代の愛知県春日井郡の農民一揆編

■主君・源義朝の名誉を守るために切腹した、心優しきつわもの・浦野重直

■母の実家の土地の規模について

■戦後の農地改革について

■父方の祖母もまた浦野重直の子孫

■明治時代の農民一揆。全国で最も激しかった愛知県春日井郡

■母の実家の辺り(春日井)は農地を領主に正直に申告していた。母のご先祖様と初代尾張藩主・徳川義直との間にあった特別な信頼関係

■犬山藩初代藩主・成瀬正成の涙のわけ

 

■尾張源氏と為朝、鬼頭氏との関係・新田開発1―プロローグ

■新木津用水を引き、春日井の新田開発をしたのは、尾張源氏本家である母の実家なのか、鬼頭景義なのか?

■鬼頭氏、及び新田開発と新木津用水について、4つの謎[1][2][3][4]

■謎[3][4]の解明:新田開発と新木津用水について調べてみよう。謎[3][4]は解けた

■謎[1][2]の解明:母のご先祖様と鬼頭氏の関係について探っていくことにしよう。以下に続く

■足助重長と源為朝娘の縁談をまとめたのは誰?

■足助重長と源為朝娘の縁談をまとめたのは、「源為朝娘の母親らと尾張源氏」ではなく、「源為朝本人と浦野重遠」だったのだろう

■なぜ為朝は源重遠の故長男の長男(嫡孫)ではなく、故長男の六男との話をまとめたのか

■源為朝と源重貞は、よく話し合い、密接に連絡を取り合う仲となっていたのだろう

■源義朝同様、保元の乱の冷酷な戦後処理に激怒し、平治の乱に本格的に参戦していた尾張源氏

■浦野重直が源義朝の身代わりになって死んだことは、なぜ表向き伏せられたか?

 

■尾張源氏と源為朝、鬼頭氏との関係・新田開発編2源為朝について

■なぜ源為朝は伊豆大島に流刑後、しばらくおとなしくしていた後、再び暴れ始めたのか? 3つの理由:①身体的な理由、②精神的な理由、③政治的な理由

■源為朝の再婚、為頼の誕生

■浦野重直の死に心揺さぶられた為朝

■源為朝娘と足助重長との縁談

■源為朝の最期

■源為朝と浦野重直の切腹 その後、切腹が武士の自殺方法として定着

■なぜ源為朝はとことんまで戦わず、自殺したか?

■源為朝の自殺は、以前の推量では説明できない次の2点①②がある

■為朝の死の真相 我が子・為頼を逃がすための偽装

■浦野重直や源為朝の切腹の目的は、切腹というものが持つようになった意味に、反映されているような気がする

■切腹の起源は尾張源氏の浦野重直であっても、尾張源氏の一族自体は、合理的な思想と行動の持ち主であったのではないか

■源為朝は一夫一妻主義かどうか

■琉球中興の王・舜天は源為朝の子・為頼だろう

■舜天の直系子孫であるという花崎家の人達と、愛知県の鬼頭氏に、清和源氏DNA地図作成の呼び掛けができたらいいな

■清和源氏の使命は次の二つ。①「天皇制が詐欺であることを広め、逆臣・藤原氏による日本支配を終了させること」。②「『武士が潔く死ぬ』というイメージは大和民族を大量に戦死に追いやりたい藤原氏らがでっちあげた大嘘。大和民族の心から、悲劇的な死を美化する傾向を取り除くこと」。また、清和源氏心実流の使命は、③「感謝、親切、工夫、成長、幸福の考え方、生き方を勧めること」。①、②は守り、つまり、過去の過ちを正すこと。③は攻め、つまり、みんなと一緒に、より良き未来を作ること

 

■尾張源氏と源為朝、鬼頭氏との関係・新田開発編新田開発について

■源為朝の末裔だという鬼頭氏。母の実家の苗字「○田」の「○」は鬼の頭の上にある円錐状のもの。「○」は鬼頭氏の苗字から取られたものではないだろうか

■三つの大きな謎。①母のご先祖様が新田開発に貢献したことに対する報酬を尾張藩主から受け取るどころか、逆に、武家の身分を捨てて、自作農家になってしまったのはなぜか。②その際、なぜ、苗字を変えることによって、子孫が自分の先祖のルーツを見失ってしまうようなまねをしたのか。③先祖のルーツを子孫が見失うようなまねをしながら、一方では、探究心ある子孫(私)が、先祖のルーツや先祖の業績を探し当てるようなヒントをしっかりと意図的に残しているのはなぜか

■母の先祖はなぜ武家をやめて、春日井に行って農家になったのか? 再考察

■岡田重政を尾張国5000石の大身旗本にする計画について、私は次のように推量した1―新田開発について

■岡田重政を尾張国5000石の大身旗本にする計画について、私は次のように推量した2―年貢の割合について

■岡田重政を尾張国5000石の大身旗本にする計画について、私は次のように推量した3―後日談、2200石の加増について

■岡田重政を尾張国5000石の大身旗本にする計画について、私は次のように推量した4―更なる考察、勘定奉行の加増について

■岡田重政を尾張国5000石の大身旗本にする計画について、私は次のように推量した5―どのように計画を立てていったか、なぜ計画は変更されたか、についての推理

■岡田重政を尾張国5000石の大身旗本にする計画について、私は次のように推量した6―先祖の霊による働きかけについての推量

■岡田重政を尾張国5000石の大身旗本にする計画について、私は次のように推量した7―最後まで反対していた岡田善同を除く、①鬼頭氏、②成瀬家当主、③岡田重政ら、④徳川義直が宗教的な思想を持つ人々かどうか

■以上のことから、謎[1][2]も解けた。これで謎[1][2][3][4]は全て解けた

 

■尾張源氏と源為朝、鬼頭氏との関係・新田開発編4その後と検証

■その後の①尾張藩主・徳川義直、②鬼頭氏、③成瀬氏、④岡田善同家について

■先祖・善政の望みを果たすことができなかった悲しみを背負っていった、清水岡田氏

■なぜ母の実家は「ご大家(たいけ)」「お家柄」と言われてきたのか。その謎が解けた

■先祖同士の繋がりを大切にする、義理堅い岡田善同家

■①尾張徳川家、②成瀬家、③岡田善同家、④尾張源氏本家の性格を振り返って、私の仮説の信憑性を検証してみよう

■①尾張源氏本家、②尾張徳川家、③岡田善同家。これらは、大和民族特有の生真面目で堅くてお人好しで、世のため人のためを考える性質を持った人達である。大和民族は、藤原氏及び藤原すり替え王朝、長州の朝鮮人集落出身者、薩摩の朝鮮人集落出身者などの百済系朝鮮民族とは、似ても似つかない

 

■尾張源氏と源為朝、鬼頭氏との関係・新田開発編5―エピローグ

■美徳とは何か

■母のご先祖様はお坊さんが両親と一族を引き連れてこの春日井市の地に来たのが始まりだった。なぜ、世俗を捨てたお坊さんが一族を引き連れてきたのか。その含む意味は何か

■原野だったあの辺りに真っ先に新田を作って移り住んできた母のご先祖様。春日井市には城が一つもない謎

■浦野重直、徳川義直、私の守護霊様。この三人は一体、どういう関係なのだろうか。そして彼ら一人一人と、私とはどういう関係なのだろうか

■ご先祖様が天に積んだ徳は、人類を人間的に成長させるために使いたい。それが私と清和源氏のご先祖様の望みだ

■神から人類への働きかけ

■私は単なる偶然とこじつけの天才か、それとも人類を神に近づけるべく成長させる道標か?

 

■清和源氏とフィギュアスケーターとの友情編■

■浅田真央選手はソチ五輪フィギュアスケート女子シングルショート前に、頭がぼーっとなる薬を盛られたんではないか?説

■邪悪な組織はしばしば薬を盛る。故中川昭一氏の泥酔会見も、薬を盛られた謀略かも。日本国家の中心組織は完全に腐っているのではないか?

■もう一度、ソチ五輪女子シングルでの浅田真央選手の様子を振り返ってみよう。ショート演技前、ショート直後のインタビュー、フリー前の練習、フリー、フリー演技直後のインタビュー、エキシなど

■浅田真央選手のソチ五輪女子シングルショート後に、私の取った行動

■私は3月初め頃に、「木下グループ STARS ON ICE名古屋公演」の2014417日のチケットを取った。しかし、「417日にお茶会がある」という噂が。。。世界選手権を目前とした3月下旬に、浅田真央選手、町田樹選手に「お茶会に出ないで」の手紙を出す

20143月下旬世界選手権で浅田真央選手金メダル、羽生結弦選手ショートで4T転倒するも、フリーで4S成功、金メダル、町田樹選手僅差で銀メダル

417日、公演の会場で羽生結弦選手にもお手紙を出す。「2014417日、忙しい中、園遊会なんかに招待されてしまって、本当にお気の毒」と

■真央選手、町田選手、羽生選手の3選手に出した手紙の内容の一部のまとめ。「藤原氏と天皇制の正体について、私のブログの紹介」

2014716日、フィギュアスケーターのみんながお茶会に欠席してくれた

■なぜここで友情宣言をするのか

■織田信成の存在が大きい

■嫡流、庶流について。清和源氏、藤原氏、イギリス王家などを例に挙げて

 

■清和源氏は心から始まった編■

■源家と母のご先祖様はいつから仲良くなったのか? 重宗の代からだろう

 

浦野重遠、源為義はなぜ同母兄を差し置いて本家の跡継ぎとされたのか1/2

■晩年は不幸だった源義家

■なぜ源義家は四男義忠を嫡男に、孫・為義をその嫡男に指名したのか?

■それは自分の末娘を誰にも文句を言わせることなく、満政流本家の跡継ぎの妻にするため

■なぜ源義家は末娘を重成と婚約させず、重遠と婚約させたのか

■それは源重遠は戦に出た記録がないことがヒントになるだろう

■奇跡的に続いた満政流本家

■まず、源義家女と源重成を見合いさせたのではないか、という推量

■義家女、重成、重遠らの年齢を確認

1105年頃、当初、婚約させたのは、源重成と源義家女だったのかも

6歳位の源重成は「戦に行かない」という条件を嫌がり、婚約破棄したのだろう

3歳位の源重遠は、お鉢が回ってきて、3条件を受諾したのだろう

 

■浦野重遠、源為義はなぜ同母兄を差し置いて本家の跡継ぎとされたのか編2/2■

■婚約したら一緒に暮らすことは、珍しくなかったろう

■重成、重貞は重遠に対して、有難いと思っていただろう

■「戦に行かない」という縛りは、秘密にされたのだろう

■祖父源重宗の養子になり、跡継ぎになった重遠

■この不自然さをどうやって目立たせなくするか?

■物心のついていない、幼い五男為義を跡継ぎに

■でも、確かめたら為義は10歳だった。。。

■暗殺された、源義家の中継ぎの嫡男・義忠

■なぜ重実は当初、源義忠殺害事件の嫌疑をかけられ、逮捕されたのか?

■重成の婚約破棄は、避けられない流れだったろう

■浦野重遠は義家女に最初から密かな恋心を抱いていたのかも知れない

■やっぱり3歳位で恋心を抱くのはありえないかも。年齢設定の変更。9歳位の源重成、6歳位の源重遠、4歳位の源重貞ということにしておこう。9歳位の長男源重成は「戦に行かない」という条件を嫌がり、婚約破棄したのだろう。6歳位の次男源重遠は、お鉢が回ってきて、3条件を受諾したのだろう。受諾した次兄重遠に感謝した4歳位の三男源重貞。6歳位の源重遠は義家女に最初から密かな恋心を抱いていたのかも知れない

■浦野重遠と義家女夫妻のエピソードの推量

 

■輪廻転生

■私の持っている、前世の記憶

■私の前世は尾張源氏本家の総領息子 山田兼継か?

■私の血筋、前世、使命は全て、清和源氏であり、承久の乱である

■私は、「尾張源氏本家の当主」を名乗りたい気がする

■なぜ三河○○氏の本家は不明なのか、分かった

■父の尾張源氏本家と母の三河○○氏本家の両方を継ぐ身の、御曹司・山田兼継

■源家の血を取り込んだ尾張源氏

■源家を心の中に持つ尾張源氏本家

■真実を追究するためのY染色体鑑定 清和源氏DNA地図

■清和源氏DNA地図作成に際しての恐れを乗り越えよう

■前世が山田兼継であるかも知れないことが、私を力強くする、かも

■承久の乱に関する3つの謎

■私の推量:山田兼継と尾張源氏の小川氏女との悲恋

■上記の推量で3つの謎は解ける

■町田樹選手の2014-2015シーズンのエキシビション「Je te vuex」も、ショートプログラム「ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲」も、山田兼継と尾張源氏の小川氏女との悲恋のイメージと似ている

 

■補足編2■

■ウィキペディアのおかしな書き換えなどによる、藤原氏による歴史捏造と日本人騙しは、現在進行中2

 

神への大いなる問い:町田樹選手は浦野重遠・小川氏女の生まれ変わりか?編/3まっちぃがらみ(?)の霊体験

■今後、私は山田兼継の生まれ変わりであると仮定しよう。また、町田樹選手をまっちぃと呼ぶことにしよう。なぜ私はこの「■神への大いなる問い:町田樹選手は浦野重遠・小川氏女の生まれ変わりか?編1/3~3/3■」、つまり、まっちぃがらみ(?)の霊体験などを書くことにしたのか、その理由

■まっちぃは山田兼継の元婚約者・小川氏女の生まれ変わりかも知れない(もし違っていたらごめんね)。私の幾つかの霊体験に出てきた霊人は、いずれもまっちぃに思えるが。。。(もし違っていたら物凄くごめんね) その霊体験についてこれから述べていこう

■①私が67歳頃、少年(1214歳頃)と思われる霊人に会った体験【まっちぃ誕生(199039日)の何と1615年も前!】(「場面A」を含む)

■②私が2930歳頃、子供(6歳位)と思われる霊人に会った体験【まっちぃ78歳時】

■③2012年頃、小柄な男性と思われる霊人に会った体験【まっちぃ22歳時】(「場面B」を含む)

■前世で仲の良かった配偶者だった霊と、悪霊・低級霊の見分け方

■②と③は同一の霊人だと分かった

2014年世界選手権を目前とした3月下旬から2014418日までの大まかな出来事

2014420日頃から私に起きていた、まっちぃがらみ(?)の霊現象と、まっちぃへの手紙やまっちぃの演技との関連性

20143月初め頃から④の前までのことを時系列順にまとめる

■④201467日午前12時頃、自分の部屋で、まっちぃ(?)と思われる霊人に会った体験(「場面C」を含む)

■私が霊体験①の「場面A」、霊体験③の「場面B」を省略し、霊体験④の「場面C」の詳しい内容を伏せておく理由

■霊体験④のあった201467()は、Fantasy on Ice 2014 in MAKUHARIの生放送があった。「エデンの東セレブレーション」の演技終了後、いつもと明らかに感情的に違っていた、まっちぃ

■①~④についてのまとめと検証。まっちぃは「小川氏女=①」=「②=③」=④の霊人かも知れない

2012年の「伝説のDOIロシュ」もまた、③の私の霊体験の直後の演技だったのだろうか? ・・・。その可能性がある

 

神への大いなる問い:町田樹選手は浦野重遠・小川氏女の生まれ変わりか?編2/3―関連知識、情報

■様々な人達の前世の例を挙げよう

■「運命の相手」の定義

■私とまっちぃの関係

■「ソウルメイト(魂の仲間)」の定義。まっちぃと私はソウルメイトだろう

■「ツインソウル(双子の魂)」の定義。まっちぃと私はツインソウルではないようだ

■「類魂」の定義については、複雑だし、確かなことはあまり分からないので、ここでは触れないことにする

■まっちぃは私のこれらの霊体験と自分自身との関与を全面否定する権利がある。沈黙は、すなわち、全面否定と受け取るべきだろう。。。

 

神への大いなる問い:町田樹選手は浦野重遠・小川氏女の生まれ変わりか?編3/3―源義家女・浦野重遠 

■私は源義家の末娘の生まれ変わりかも知れない。根拠は本の原稿編集中の霊現象。でも、あまり大した根拠ではないので、蓋然性は比較的低い

■まっちぃは浦野重遠の生まれ変わりかも知れない(もし違っていたらごめんね)。根拠は鎌倉武士っぽい顔、武士(清和源氏)っぽいセリフ、「白夜行」、「エデンの東」「レジェンド・オブ・フォール」。つまり、私とまっちぃは源義家女・浦野重遠(夫婦)の生まれ変わり、かつ、その子孫である山田兼継・小川氏女(元婚約者同士)の生まれ変わりかも知れない

■じゃあ、まっちぃ自身はどう思っているのか?

■まっちぃの引退後の初プログラム「継ぐ者」(2015425日)に込められたメッセージの私なりの解釈

■これらの輪廻転生&霊現象の一連の話の真相は何か?

 

霊的な事柄への正しい判断の仕方編■

■過去の苦い失敗体験

■背後霊の声について

Yahoo!知恵袋か何かで読んだ心の声に関する相談内容について

■霊人の声・自分の心(気持ち)などのまとめ

■比較的高級な霊は右肩の方に、それほどではない霊は左肩の方につくのかも知れない

■低級霊・悪霊にたぶらかされたと思われる、他者の幾つかの例①、②、③

■悪人・悪霊の類(たぐい)に騙されないためのポイント

■過去の苦い失敗体験は何のためにあったか? それは、同じような体験があったときに、私が冷静な言動で対処できるようにするため。また、高級霊は人間の恋愛・結婚に一切指図しないだろう。そのことを悟らせるため。まっちぃと私は今後、どうなるか? 大切なのは「どの人が運命の相手だろうか?」と考えることよりも、自分が人間的に成長することだろう

 

私の前世山田兼継である、その他の根拠編■

■私の前世が山田兼継である、その他の根拠を示そう

■私は13歳くらいの時、クラスメートに「私は戦(いくさ)で敵を討ち取ったことがある」という類(たぐい)のとんでもない冗談を、誇らしげに言ったことがある。私が山田兼継であった承久の乱の時に、敵を討ち取ったのに、一生誰からも褒められなかった心残りのため?

■前世で受けた愛国心教育の影響かも。「人を殺してみたかった」殺人

■権力は悪か? そうとは言えないだろう。レッテル貼りは悪だろう。ラベル貼りは悪か? そうとは言えないだろう。レッテル貼りとラベル貼りは異なる。。。中身と異なるラベルを貼ることが得意の藤原薩長が、自分に中身と同じラベルを貼られて、「レッテル貼りだ!」と非難しているが、騙されないように気をつけて欲しい

■私は滅多に怒らないが、怒ると鎌倉武士みたいな感じになる。怒ると山田兼継っぽさが出てしまうのかも知れない

■清和源氏満政流は、比較的身持ちが固かったと思う。恋愛・結婚についての考え方は、私と山田兼継は同じなのではないだろうか

 

『北斗の拳』は清和源氏の一族の霊からのインスピレーション?編■

■漫画『北斗の拳』の登場人物、南斗水鳥拳の使い手、義の男レイは満政流と山田兼継を彷彿させる。『北斗の拳』は本当に「源家と清和源氏満政流本家との歴史」からインスピレーションを受けてできた物語なのかも知れない

■漫画『北斗の拳』のユリアは南斗聖拳最後の将で、リンは天帝の子だった。これらは、先祖の清和源氏のルーツがあまりはっきりしていなかった『自分流』が、実は血筋、魂共に、れっきとした清和源氏満政流の中心人物だったことが、だいぶ後になって分かったことと似ている。。。

 

■学び編■

■私はレイや山田兼継の生き様を見て、次の学ぶべきこと①~④を見つけた。一つ一つ述べていこう

■漫画『北斗の拳』のレイから私が学ぶべきこと①「肉体的・物理的な一致よりも、人間性を見て判断する」 まっちぃが浦野重遠、小川氏女の生まれ変わりか否かの蓋然性は、半々(ハーフハーフ)だろう。それは、まっちぃの今後の行動によって最終的な判断を下すことになるだろう

■正しい判断力の目安:「外面的な事柄、表面的な事柄」よりも、「内面的な事柄、本質的な事柄」によって、判断せよ。「■低級霊・悪霊にたぶらかされたと思われる、他者の幾つかの例①、②、③」は、次のように判断すべきだろう

■漫画『北斗の拳』のレイから私が学ぶべきこと②「自分を助けようとする者だけが生き残ることができる」

■落石の話とビラ配りの話。私ができることは天皇制詐欺説をできるだけ多くの人の目に留まらせることまで。後は各自の責任。「自分を助けようとする者だけが生き残ることができる」。邪悪だけが悪いのではない。邪悪に騙される暗愚もまた、悪い。暗愚は邪悪の母。「天皇制を容認あるいは支持する日本人が愚かかどうか」、よく考えてみて欲しい

■漫画『北斗の拳』のレイから私が学ぶべきこと③「絶望の中からも希望を見い出せ」

■山田兼継とレイの失敗から私が学ぶべきこと④「決して焦るな。百年かけて目標を達成せよ」・・・時が来るのを待て

 

■一休宗純もまた、私の前世のうちの一つ?編■

■一休宗純の生まれ変わりは私かも知れない。私がそう思うようになったエピソード1~4をこれから述べよう

■エピソード1(小学校高学年か、中学校の時) 「まさか一休さんは私の前世?」

■エピソード2(20157月) ネットで一休宗純と森侍者の事を初めて知る。「一休宗純は山田兼継の生まれ変わりで、森侍者は小川氏女の生まれ変わり?」

■一休宗純が山田兼継の生まれ変わりである可能性はあるのか、検証してみよう。検証①~③の結果から、その可能性はあるだろう

■エピソード3(20158月から20163月までの間の話) 私は漫画『北斗の拳』を再び読んで気付く。「レイは一人二役で、山田兼継かつ一休宗純を表す? マミヤは小川氏女を表し、盲目だったアイリは森侍者を表す?」

■「源義家の末娘と山田兼継」の生没年の確認。源義家の末娘の没年の23年後に兼継誕生。源義家の末娘の生まれ変わりが山田兼継である可能性は一応、ある

■源義家の末娘、山田兼継、一休宗純、陸羯南(くがかつなん)は私の前世かも。。。私は「前世欲張り日本一」なのか?

■エピソード4(201658日) TV放送BSジャパン「プリンスアイスワールド2016 横浜公演」のまっちぃ「あなたに逢いたくて (Missing You)」(「悲恋三部作」の三つ目)を観て。「これは一休宗純と森侍者の物語なのか? やはり、一休宗純と森侍者は山田兼継と小川氏女の生まれ変わりである蓋然性が高いのだろうか?」

■町田樹悲恋三部作についての考察

 

シャーリー・マクレーン、その前夫・スティーブ・パーカーは、それぞれ、森侍者と一休の生まれ変わりか?編

■アメリカの女優・シャーリー・マクレーンもまた、自分の前世の一つが一休宗純の恋人・森侍者だったと言っていることについての考察

■①『ダンシング・イン・ザ・ライト』(シャーリー・マクレーン)からの情報

■②『幸福への共時性』(湯川れい子)からの情報

■③『アウト・オン・ア・リム』(シャーリー・マクレーン)からの情報

■④『地球(ガイア)のささやき』(龍村仁)からの情報

■シャーリー関係者の他の人達はどう思っているのか?

■私の考え:私はシャーリーも、スティーブも、それぞれ、森侍者、一休の生まれ変わりなどではない、と思う

■「各人の生まれ変わり説」について、何をどの程度信用すればいいのか?

■ある人物Aさんが、催眠誘導によって見た、ある人物Bさんのビジョンに関する推量1~7

■シャーリーの見た、自分の過去世としての森侍者のビジョンは、どの程度信用できるか?

■実際に、催眠誘導で誰かのビジョンを見た場合、一体、どのように見えるのか?

■背後霊の憑依について

■「■ある人物Aさんが、催眠誘導によって見た、ある人物Bさんのビジョンに関する推量1~7」の推量5の更新

■守護霊、背後霊について

■シャーリー・マクレーン、その前夫・スティーブ・パーカーは、それぞれ、森侍者の背後霊の一人、一休の背後霊の一人だったのでは? シャーリーは、①「50代頃の一休の顔を見たことがある」、②「老年の一休の顔は見ていない」、③「酬恩庵の景色も、見たことがある」。この推量以外の推量で、この①、②、③をうまく説明することのできる推量は、なかなか、ないのではないだろうか?

■山田宗敏住職、湯川れい子、龍村仁の3人がシャーリーをむしろ一休の生まれ変わりではないか、と考えた理由の推量

■まっちぃについては一通り書き終わったので、これ以降は「まっちぃ」と書くのをやめて「町田樹」に戻すことにしよう

 

■山田重忠の後悔編/3―重満

■なぜ、尾張源氏と三河○○氏は、承久の乱(1221年)で京側に参戦し、無謀な仇討ち戦争に走ったのか?

■山田重忠(1168?-1221)の後悔。山田重忠は源行家、源義経の霊を密かに弔ったのではないか?

■源行家(11411143-1186年)とはどんな人物か

■源義経(1159-1189年)とはどんな人物か

1180年、源行家は以仁王の平家追討の令旨を各地の源氏に伝達。浦野重遠らのところにも来たはずだ。その際、山田重忠は源行家女と婚約したのだろう

1181年、重満、重長は墨俣川の戦いで源行家の軍勢に加勢し、戦死

■もし山田重満が生きていたならば、同世代の頼朝と、どのような人間関係を築いていたのだろうか? 信用できる相手として、お互いの意見に耳を傾け合う間柄になっていたかも知れない。絶対とまでは言わないが、頼朝による義高殺害(1184年)もなかったかも。残念である。。。

 

■山田重忠の後悔編2/3―源頼家と足助重長女の婚約

11854月、源重遠は源頼朝のもとに参上。その時、頼朝と重遠は、源頼家と足助重長女の婚約を決めたのだろう

■足助重長女は、いつ源頼家の家にやってきたか?

■足助重長女の子・公暁(1200-1219)は若狭局の子・一幡(1198-1203)の2年後に生まれている。(1198年頃?)頼朝は頼家が若狭局を既に側室にしてしまったのを知って、あわてて、重長女(当時19歳?)を迎え入れて、頼家(当時17歳?)と結婚させたのだろう。いや、結婚の時期は予定通りだったのかも知れないが。。。

■娘を婚約者の許へ送るタイミング

■頼家は自分に婚約者がいると知っていたのに、なぜ、父頼朝の意に背き、他の女性を無断で先に側室にしてしまったのか? それは、姉・大姫の不幸な婚約のことが影響していると思う

 

■山田重忠の後悔編3/3―なぜ、尾張源氏は待てなかったのか?■

■行家、頼朝の両方と婚姻関係を結んだ尾張源氏本家。「行家、義経」と頼朝の対立。11858月に頼朝と対立した行家は、尾張源氏本家に自分達の味方になるように声を掛けたに違いない。重遠はそれを断る。激怒した行家が山田重忠に嫁がせた娘を勘当。行家の敗死(1186年)、義経の敗死(1189年)

■山田重忠は源行家、源義経が頼朝に殺された時、「源頼朝と彼らを和解させようともっと真剣になるべきだった」と、きっと非常に後悔したと思う

山田重忠の妻は源行家女だったので、山田重忠が頼朝と「行家、義経」を和解させようとするのは、立場的に非常に難しかったのだろうか? 頼朝と「行家、義経」が決定的に対立する前だったならば、一応、可能だったと考えられる。それは僅(わず)か4ヶ月の期間ではあったが。。。

■なぜ、尾張源氏は待てなかったのか? 心の中に秘めた、「源行家と源義経への済まないという強い思い」に、「実朝、公暁らを謀殺した北条氏への強い怒り」が加わったためだろう

■我々は、忍耐を学ばねばならない。また、たとえ無駄になる蓋然性が高くて、しかも、自分にとって危険であるとしても、大事な義務をしっかりと果たさねばならない。更に、義務が果たせる期間は、山田重忠の場合と同様、ほんの僅かな期間かも知れない。。。

■今現在、我々が抱えている問題。。。「天皇制という、地球上で最も邪悪な詐欺を廃止すること」も、それと同じだろう

 

山田兼継の母の実家・清和源氏満政流木田氏本家編

■山田兼継の母の実家を「三河○○氏本家」と呼ぶのは厳密に言えば正しくなかった。承久の乱の時には山田兼継の母の実家は「木田氏」を名乗っていたと思う。よって、山田兼継の母の実家は「清和源氏満政流木田氏本家」だろう。山田兼継の母方の祖父は誰か?

■清和源氏満政流木田氏について。サイト①~⑧

■上のサイト①~⑧の情報について考察しよう。あれっ? 書かれた内容が食い違っている??? 内容()()()の検証

■内容()()()のまとめ

■それでは、承久の乱で戦って死んだ、木田氏本家の当主(兼継の母方の祖父)は一体、誰なのか? それは、木田氏本家二代目当主と同じ名を持つ、五代目当主「木田重国」なのではないだろうか? 流布している家系図では、この二人が混同されているのでは?

■サイト①~⑧をもう一度、しっかりと詳しく見直そう。木田重長の子孫の家系図(流布しているもの)と、内容()()のまとめ。目を引く二点①、②。二人の人物の混同

■私の推量。今後は私のこの推量が正しいと仮定して、話を進めていこう

■平治の乱後は、源重実の次弟・木田重長(美濃国)の家が満政流の中では最も勢力があったのかも。「山田重継と『木田重国の跡取り娘』の結婚、兼継らの誕生」によって、両家統合

■木田重知が木田氏本家当主ではない証拠らしきものを発見した。重知の父と重知は、重方の配下として、承久の乱に京方として参戦し、戦死した。この「重方」こそが、木田氏本家五代目当主・木田重国の別名ではないのか? 「木田重長の子孫の家系図(私の推量)」を改訂した

■まとめ

 

確認~山田重忠~

■山田重忠もまた、父・山田重満や叔父・足助重長同様、平家と戦っていたことについて。重忠は義仲の配下として平家と戦っていた。どんな経緯で、なぜ若年の重忠も平家と戦うことになったのか?

■重忠の婚約者の父・行家は墨俣川の戦い、三河国矢作川の戦いで大敗した後、頼朝に嫌われ、義仲の幕下に走った。重忠はそれについていったのでは?

■全体的な流れ:行家は義仲の幕下に。頼朝と義仲の関係、悪化。義仲の死。行家は義経に接近。そして、、、行家の死。義経の死

■重忠はいつ、義仲の配下として平家と戦ったのか? それは1183年だろう

■重遠は平家との戦いに行く重忠(16歳)をきっと心配しただろう。木田氏に「重忠のことをよろしく」と頼んだかも

■山田重忠はいつ、行家と距離を置くようになったのか?

■「山田重忠も、源義仲が1183年秋頃(?)没落した後、木田重国の子と同様に、頼朝に帰順した」と仮定して、色々な状況を、推量し直してみることにしよう。。。

■年表

■先程のように仮定すると、やっぱり、辻褄が合わない。。。よって「1183年秋頃(?)、重忠が頼朝に帰順した」と考えることはできない

■義仲没落後の、木田氏と重忠について

■なぜ山田重忠は婚約破棄しなかったのか? なぜ山田兼継は婚約破棄したのか? それはどちらも、婚約者を守るためだろう

■思っていた以上に難しかった、重忠の立場。だがそれでも、重忠は、頼朝と「行家、義経」とを和解させようと、もっと真剣に努力すべきだったろう

■再び、考えよう。山田重忠はいつ、行家と距離を置くようになったのか? 重忠から距離を置いたのではないだろう。11858月に頼朝と決定的に対立した行家から、味方になるように声を掛けられて、重遠がそれを断ったため、激怒した行家から妻ごと縁を切られたのだろう

■ずっと以前、読んだ時に「あれっ?」と思ったことの経緯が、初めて理解できた。山田重忠が頼朝の家臣になった時期。私の一連の推量が当たっていたことが確認できた

 

■確認編2~山田重義~

■山田重忠の長兄・重義に嫡流子孫はいたのか?

■他のサイトも見直してみた

■重義のことが書いてある、その他のサイト⑨、⑩

■サイト⑨、⑩の中の、気になる所(ア)、(イ)、(ウ)

■墨俣川の戦いで、重満以下兄弟と共に戦死した重高とは? 一応、重義ではない、と考えておくことにしよう

■戦の記録にないことから、重義は1180年よりも前に夭折したと思われる

■もし重義に「嫡流子孫・庶流子孫」がいるのならば、重忠の嫡流は満政流本家ではないだろう

■だが、私はやはり母の実家が満政流本家だと思う。その根拠①、②

■重義の年齢を細かく考えていこう。すると、行家女と重忠が婚約したんだろうと考えられる。1180年には、重義も重義の嫡男もこの世に存在していない状態で、重忠が尾張源氏本家の嫡男だった蓋然性が非常に高いと思われる。。。。

■蓋然性がどれだけ低くても、重義に嫡男がいたケースについて考えよう。。。やっぱりいくら考えても、重義に嫡男などいなかったろう

■「重義には嫡男など初めからいなかった」と思われる大きな証拠・長兄寺(長慶寺)

■・・・。先程言ったことを取り消そう。長兄寺(長慶寺)は必ずしも重忠が建てたとは限らなかった。。。

■長兄寺(長慶寺)を建てたのが重忠ではなかったとしても、やっぱり、重義には嫡男など、いなかったろう

■重義の亡くなった時期は、元服後で、まだ未婚の時のような気がする。。。

■では、なぜ重義の末裔を称している人達がいるのか?

 

■確認編3~蓮仁(山田禅師)

■山田兼継の三弟・蓮仁(山田禅師)には子孫がいるのか?

■その他のサイトも調べてみた

■仏教について。日本の仏教で妻帯が可能だったのは、浄土真宗だけだった。だが、明治政府(藤原薩長)が仏教の堕落化を目論んで、僧侶の肉食・妻帯・蓄髪を許可してからは、仏教のどの宗派も、なし崩しに妻帯するようになったそうだ

■尾張源氏本家は仏教のどの宗派だったのか? 結論:尾張源氏本家は、武家をしていた時代は曹洞宗だったのではないか、と考えられる。少なくとも、兼継の三弟・蓮仁が浄土真宗であったはずはない。また、蓮仁はまだ少年の頃に出家している。よって、一生独身であり、子孫のいたはずはないだろう

■では、蓮仁(山田禅師)から始まる系図は何なのか? それは師弟関係による法脈と考えて間違いないだろう

■曹洞宗は開祖・道元が1228年に帰国してから作った宗派だ。それ以前は、尾張源氏本家は何の宗派だったのか? 尾張源氏本家の宗派をもっと詳しく調べてみよう。菩提寺の常観寺(成願寺)から、葦敷重頼(重遠次男)、山田重忠の生きていた時代は、尾張源氏本家は天台宗であったことが分かった。長父寺(大永寺)の再興から、岡田重頼、岡田善同の頃は、尾張源氏本家は曹洞宗だったと思われる

 

■確認編4~二人の葦敷重頼~■

■重遠次男・葦敷重頼の生年が1112年? 重遠(1100?-1185より後)のたった12歳下ではないか。重遠長男・重直(1123?-115912月)が父・重遠の23歳下なのに。。。これはどういうことか? 浦野重遠の弟の一人(五弟と仮定した)「葦敷重頼」と、浦野重遠の次男「葦敷重頼」は、同姓同名だった! この二人が混同されているのでは?

■重遠五弟「葦敷重頼」と次男「葦敷重頼」の記述は混同されているから、分けてみよう。。。と思ったら、重遠五弟「葦敷重頼」の子・葦敷重義についての記述が何だか変だ。。。葦敷重義こそ、墨俣川の戦い(1181年)に参戦して「葦敷重隆(重高)ということになっている、戦死した武士」なのではないだろうか?

■改めて、「葦敷重頼」についての記述を、重遠五弟「葦敷重頼」のものと、次男「葦敷重頼」のものとに、分けてみよう。。。

■二つの疑問。尾張源氏の一族は、なぜ戦死した葦敷重義を帳面上、「葦敷重隆(重高)・戦死」のまま放置しておいたのか? なぜ重遠次男と重遠五弟は、同じ名前「葦敷重頼」なのか? これらは全て、「浦野重直の死の隠蔽」に繋がっている。。。

■山田重満兄弟は7人かも知れないので、7人だと仮定することにしよう。墨俣川の戦い(1181年)で、山田重満兄弟は7人中、長男・山田重満、六男・足助重長、七男・水落重基は戦死、三男・高田重宗(重家)は生存、次男・彦坂重親、四男・白川重義、五男・小島重平は生死不明。重遠五弟・葦敷重頼の子・葦敷重義は戦死したが、人違いで「(葦敷)重高戦死」と記録された。重遠次男・葦敷重頼の子・葦敷重隆(重高)は生存

■大きな戦の後、満政流本家に近いほど、「戦死した一族の菩提を弔うために出家する人」が多いと思う。また、承久の乱からしばらく経った後、満政流が再び鎌倉幕府に出仕した時に、満政流本家に近い人ほど、北条泰時の「泰」の字を偏諱(へんき)授与として押し付けられたのではないだろうか? それを考えると、やはり私の考えた通り、木田氏は重季の方が木田氏本家当主に近く、重知の方が木田氏本家当主から遠いのではないだろうか? 重季が木田氏本家当主に一番近い甥であったと言えるだろう

■「山田兼継と『自分流』」の血筋のまとめ

 

■確認編5~源重宗の子孫~■

■尾張源氏と清和源氏満政流について、気の付いたこと。承久の乱に参加したのは「源重宗の長男重実、次男重長、三男重時」の子孫だけ。私の推量「源重宗の実の息子は、長男重実、次男重長、三男重時の三人である」が当たっている蓋然性は、高くなったと言えるだろう。また、そのことから、(推量)「源家と母のご先祖様は、「『頼義・義家親子』と重宗」の代から仲良くなったのだろう」が当たっている蓋然性が高まったと言えるだろう

■満政流は重宗の代から「重○」という名前の付け方を、源家は『頼義・義家親子』の代から「義○」という名前の付け方を一生懸命するようになった。「重」は、「義を重んずる」の「重」なのだ。つまり、源家の「義」とペアになって、初めて満政流本家の「重」は意味を成すのだ! 以上のことから、上記の(推量)「源家と母のご先祖様は、「『頼義・義家親子』と重宗」の代から仲良くなったのだろう」は当たっていると言えるだろう

■清和源氏の一族の通字(とおりじ)。「忠」は無条件にいいものとは言えない。善にも悪にもなる「鉄人28号」のようなものだ。よって、常に善を目指す「義」がいい

■思っていたよりも犠牲になっていた源重成

■入江重時の子孫のうち「小島氏」だけが、承久の乱の時に尾張源氏や木田氏と一緒に京側で戦った理由

■「重俊、重範が源重時の弟『重親』の子」とは、どういうことか? 源重宗には「長男重実、次男重長、三男重時」の3人の息子しかいないはずである。重時の弟「重親」とは、近い親戚の「重親」の間違いではないだろうか? それは墨俣川の戦い(1181年)で戦死した、「浦野重直の次男・彦坂重親」ではないだろうか? そして、彦坂重親の息子「重俊、重範」を養子にしたのは源重時の養子・光成ではないだろうか? 彦坂重親の子は、「重康(承聖)、重範、重俊」の3人ではないだろうか?

 

■確認編6~浦野遠子孫の重複の謎~■

■私は、一つの系図に描いてあった「山田重貞の子である、1181年に死んだ重満」は、「浦野重直の長男・山田重満」の間違いだと思っていた。でも、そうではない。これは同姓同名の「山田重貞の次男」であると思われる

■ところで、浦野重直が長男に自分の従弟と同じ「重満」という諱をつけたのは、偶然だろうか? このことについて、よく考えてみることにしよう。それは、間柄もそれほど近くないし、単なる偶然だろう。しかし、満政流本家辺りで「おじ・甥」、「従兄弟」が意図的に諱を重複させた期間があった。これはわざとであろう。「うちは気に入った諱があれば、おじや従兄と重複していても付けることにしているんだよ」と言うためである。つまり、重遠の次男・葦敷重頼の諱を重遠の五弟と重複させた不自然さを誤魔化すためである

■山田重満の長男・重義の末裔を称している人達は、本当は、重直の四男・白川重義の子孫ではないだろうか?

 

推量1~子孫、及び、名前の付け方~

■源重宗の子・重高とは、源重宗が養子にもらった「源重宗の次男・木田重長の子」ではないだろうか?

■重宗の五男(養子)・重高の子供の名前の付け方から、重高の気持ちを推量しよう

■光成の養子・小島重俊の子供の名前の付け方から、重俊の気持ちを推量しよう

■重遠次男・葦敷重頼の子供の名前の付け方から、重頼の気持ちを推量しよう

■再び、重宗の五男(養子)・重高の子供の名前の付け方。「藤」の字の意味

■源重時が養子をもらった時の状況を推量してみた

■入江光成が養子をもらった時の状況を推量してみた

■なぜ「彦坂重親」が源重時の弟ということにされてしまったのか、推量してみよう

■重実の「佐渡重成、浦野重遠、山田重貞(重定)、八島時成、葦敷重頼」以外の子供5人について

■今までの推量と仮名(けみょう)との間に整合性があるかどうか確認してみよう。「重遠とその義弟・源重高」のそれぞれの仮名「浦野四郎、佐渡七郎」を中心にして

■佐渡(源)重高とその子孫の、平治の乱(1159年)、治承・寿永の乱(1180-1185年)、承久の乱(1221年)における動向について推量してみた

 

■推量編2~背景、状況、仏教~■

■源義忠暗殺事件について。なぜ重時は僧侶のように髪を剃っていたのか? 無髪判官・源重時は、源義忠暗殺事件後、この事件の悲しみを全て背負って生きたのではないだろうか?

■承久の乱を京側で戦って敗れた清和源氏満政流の一族が、尾張源氏小川氏などの口添えにより、再び鎌倉幕府の御家人になるまでの状況について

■清和源氏満政流が嫌う、日本の三大逆臣=「藤原氏、北条氏、豊臣氏」。ついでに言うと、清和源氏満政流は、『忠臣蔵』も反吐(へど)が出るほど大嫌いだ

■明治維新の年(明治元年1868年)の100年後に生まれた私

■長母寺、長父寺、長兄寺から分かったこと、その1。(推量)「山田重親は晩年に夫婦揃って出家した。重親の戒名は安養であり、後に道円に改名している。山田泰親の戒名は良円である」が当たっている蓋然性は、30%くらいだろう。よって、蓮仁(山田禅師)から始まる法脈は、四人全員が満政流本家出身者かも

■長母寺、長父寺、長兄寺から分かったこと、その2。「安養院」は北条政子の戒名だった。北条政子は1225年、頼朝の菩提を弔うため、吉野重季の末子・願行(憲禅)を開山として長楽寺(後の安養院)を創建した。長楽寺は創建された時、律宗だったので、長楽寺を開山した願行の宗派は律宗だったのだろう。山田重忠の宗派は天台宗だったが、清和源氏満政流は承久の乱で大敗してからは、天台宗以外の宗派について色々勉強し始めたのかも知れない。北条氏の支援を受けた願行(憲禅)の僧侶としての活躍

■長母寺、長父寺、長兄寺から分かったこと、その3。「山田兼継は80歳くらいまで生きて、安らかな生涯を送った」という私の推量は外れていたようだ。。。鎌倉幕府に再出仕する話が来た時に、兼継は「我が一族のみんなが逆臣・北条氏に仕えるなんて絶対に反対だ」という気持ちを押し殺して、一族の者達の各自の自由意思に任せたのだろう。一族の者達を「ほとんど無理矢理、京側で参戦させる方向に導いたも同然」の、承久の乱の時のことを反省しているからである。兼継は、北条氏に支援されている願行(憲禅)にも、いい気持ちを持っていなかった。そして、兼継はストレスが溜(た)まって、46~49歳で若死にしたのだろう。兼継の家族は兼継の死後、彼の憤懣(ふんまん)やるかたない気持ちを綴った日記を見て、彼の隠していた本当の気持ちを知ってしまったのではないだろうか? それが、後の次弟・重親夫妻の出家に繋がったのでは? そして、後に願行(憲禅)もそれを知ることとなったのでは? 願行製作の大山寺の本尊鉄造不動明王と二童子像には、重忠・重継・兼継らの、逆臣および邪悪への激しい怒りが込められているのではないか?

■長母寺、長父寺、長兄寺から分かったこと、その4。長母寺(創建当初の名前は「亀鐘山桃尾寺」)は、重満が長男・重義の死の翌年である1179年に、母を亡くし、兄まで亡くして、二人に会いたがって寂しがる重忠(12歳)を慰めるため、そして自分の心を慰めるために建てたのではないだろうか? 長兄寺は、やはり山田重忠が長兄・重義の供養のために建てた寺ではないだろうか?

■まとめ(諱重複チェック● 「!」は苗字まで重複)(生没年付き)(三訂版)

 

■満政流木田氏本家、駿河源氏吉野氏、○勘助、三河○○氏の関係編■

■父の実家が三河○○氏の嫡流である可能性は本当にあるのか? いや、父の実家(=祖父の家)は分家だから、三河○○氏の庶流である。だが、「伯父の跡を継いだ高祖父(祖父の祖父)」が三河○○氏本家当主である可能性は、一応はあると思う

■武田信玄の軍師・○○勘助について

■サイト①~⑲の「三河○○氏の系図に関する情報」の食い違いについて。本当の「三河○○氏の系図」の推量

■人物と名前が1対1対応していないので、しばしば勘違いが起きる

■私を誕生させる計画は、一体いつ霊界で作成されたのだろうか? 兼継の死後だろう。母の実家の苗字を「○田」へ変える計画と、父の実家の苗字を「○○」へ変える計画との繋がりについて

■父方の祖父は分家して実家(=祖父の祖父の家=祖父の叔父の家)を出た。父方の祖父の実家が三河○○氏本家である蓋然性は30%くらいだろう

■「山田兼継と『自分流』」の血筋のまとめ(改訂版)

■○○勘助は誰の生まれ変わりなのだろうか? 清和源氏満政流そのもののような勘助は、浦野重直とも、山田重忠とも似ている。。。①~④の理由より、○○勘助は浦野重直の息子にして山田重忠の父である、山田重満の生まれ変わりかも知れない

 

■清和源氏の「親子の年齢差の平均」と生没年1~満政流~

■清和源氏満政流の「親子の年齢差の平均」は妥当かどうか、確認してみよう

■吉野氏について。吉野重季【10】から吉野貞倫【18】まで、「親子の年齢差の平均」は妥当かどうか、確認してみよう 《吉野 1 2 3 4 5 6 7 8 9(祖) 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36… 注:赤色 注目青色 確認済み紫色 確認済みを注目緑色 推定済み、黒字 それ以外》

■「吉野重季【10】から吉野貞倫【18】まで」の代わりに、「吉野重泰【11】(1212??-?)から吉野貞久【19】まで」、「親子の年齢差の平均」は妥当かどうか、確認してみよう 《吉野 1 2 3 4 5 6 7 8 9(祖) 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36…》

■四代目・吉野貞継【21】(1475??-?)から十九代目・吉野文郷氏【36】(1943-)まで、「親子の年齢差の平均」は妥当かどうか、確認してみよう 《吉野 1 2 3 4 5 6 7 8 9(祖) 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36…》

■満政流本家全体、おおまかに「親子の年齢差の平均」は妥当かどうか、確認してみよう 《1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37…》

■満政流本家について、細かく見ていこう

■岡田(○田)重政(1代目)【22】(1578??-?)から○田源三郎(12代目)【33】(?-?)まで、「親子の年齢差の平均」は妥当かどうか、確認してみよう 《1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37…》

■源満政の嫡流家系図(生没年付き) 《1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37…》

■清和天皇(850-881)から源満仲、源満政【1】までの生没年を推量してみた

■満政流本家の忠重【2】から重実【5】までは生没年が不明なので、これらを推量してみよう。 《1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37…》 源満政【1】(914?-?)から浦野重遠【6】(1100?-1185より後)までの「親子の年齢差の平均」が37.2歳で大き過ぎる。ひょっとしたら、1代抜けているのでは?

 

■清和源氏の「親子の年齢差の平均」と生没年確認編~源家~■

■私は、満政【1】から重遠【6】まで徹底的に調べて生没年を推量してみることにした。。。その比較対象にするため、まず、源家の人達の生没年についても調べてみた。★★清和源氏一族のWiki(再掲、初出混合) ★★生没年を書いた系図:源家 ★★父の何男か、父との年齢差:源経基まで ★★父の何男か、父との年齢差:満政流 ★★父の何男か、父との年齢差:源家

■源頼信は三男で父との年齢差が56。源義家は長男で父との年齢差が51。この二人は父との年齢差が大き過ぎるのではないか? 源家の「親子の年齢差」と各人の生没年について、詳しく調べてみた

■子供を儲ける年齢は、女性は2040歳くらい? 男性は2060歳くらい?

■源経基までの「親子の年齢差」と各人の生没年の推量

■源満仲関係の「親子の年齢差」と各人の生没年の推量

■源頼信関係の「親子の年齢差」と各人の生没年の推量

■源頼義関係の「親子の年齢差」と各人の生没年の推量

■源義家関係の「親子の年齢差」と各人の生没年の推量

■源義親関係の「親子の年齢差」と各人の生没年の推量

■源為義、源義朝、源頼朝の「子の生没年と親子の年齢差」

■源家の「親子の年齢差」についての結論:特に矛盾はないように思えた

 

■清和源氏の「親子の年齢差の平均」と生没年確認3~源頼信と源義家は、なぜ父との年齢差が大きいのか?~■

■源頼信と源義家は、なぜ父との年齢差が大きいのか、推量してみた

源頼信(ちなみに、一夫一妻主義者)について。父との年齢差が大きいのは、父・満仲が妻を大事にする、一夫一妻主義で、頼信は父よりずっと年下の二番目の妻・藤原致忠女の子だったからだろう。源満仲の妻は「源俊女、藤原致忠女、妻A?」の三人だったろう

■源義家について。父との年齢差が大きいのは、父・頼義が超晩婚だったからだろう・・・と一旦は思ったが、その推量は間違いだったようだ。。。父・頼義が妻を大事にする、一夫一妻主義で、先妻の産んだ長男を出家させて、自分よりずっと年下の後妻の産んだ義家を表向き長男ということにして、跡継ぎにしたからだろう

■源満仲の二人の娘「藤原頼親室、源敦室」について詳しく調べたところ、源満仲の妻は三人ではなく、「源俊女、藤原致忠女」の二人だけだったらしいことが分かった。「★源満仲(912?-997)(享年86)」を改訂した

■満仲の猶子・孝道と、満仲の娘かもしれない「藤原惟成室?、藤原仲義室?」についても調べてみよう。孝道(猶子)は源満仲の姉妹・源元亮室の息子だった。源満仲には「藤原惟成室?、藤原仲義室?」という娘は、実際にはいなかったようである

■源満仲の五男・源賢(賢快)(僧)には子孫がいた? 源満仲の子・源賢を祖とする「清和源氏源賢流」について調べてみた。いずれも「法脈上の繋がりを持っているだけ、あるいは、仮冒(偽称)」だと私は思う

 

■清和源氏の「親子の年齢差の平均」と生没年確認編4~一夫一妻主義~■

源義家も「満仲、頼信、頼義」同様、愛妻家の一夫一妻主義ではないか? 確認してみよう。そうだった。源義家の妻は「源隆長の娘、藤原有綱の娘」の二人だけだったようだ

■『清和源氏の全家系1』13-14頁の家系図の中で山田重継の子供が「兼継、重親、重宗、重義、重平、重長」となっていることについて。重継の子供は「兼継、重親、蓮仁(僧)」の三人だけのはずだから、『重宗、重義、重平、重長』は何かの間違いではないだろうか? 山田重直の三男・高田重宗の次男・山田重村が、山田重継の四男から七男として描かれている『重宗、重義、重平、重長』の本当の父だろう

源義親もまた、「満仲、頼信、頼義、義家」同様、一夫一妻主義だったろう。妻は高階基実の娘、一人だけだろう

■「源為義は、源義親と正室・高階氏との間の子で、源義親の五男」説についての、私のかつての推量を再点検しよう。1105年、源重宗は長男の次男である重遠を自分の養子かつ跡継ぎにして、仮名「四郎」を付けた。それに合わせるために、源義家は「自分の四男・義国(仮名:三郎)より年下で、五男・義時より年上の、『義親の息子達』」=「義親四男・義行、義親五男・為義」のうち、最も幼い為義を選んで跡継ぎに指名し、孫で養子の為義に「陸奥四郎」、実子で五男の義時に「陸奥五郎」、実子で六男の義隆に「陸奥六郎」という仮名を付けることにしたのだろう

■「四郎」という仮名をつけたくて源為義を選んだ源義家は愚かなのだろうか? なぜそこまで年の順と「仮名」にこだわったのか? 源義家、源重宗の二人は、「陸奥四郎」為義、「佐渡四郎」重遠を、「孫で養子で四男の『四郎』コンビ」として、二人セットで元服させ、親戚や世間に我が家の次々代の当主としてお披露目して、二人セットで認識してもらい易くすることを考えたのだろう

■推量というものの難しさについて。我々は謙虚に、そして、どこまでも、どこまでも、粘り強く真実を追究していかねばならない

■源義親室(高階基実の娘)の生年を1067年だと仮定しても整合性があるかどうか、確認しよう。整合性はあるだろう

■高階成忠は本当に高階氏の嫡流か、ちゃんと確かめてみよう。嫡流と言ってもいいと思う

■高階成忠の嫡流はどうなったのか、見てみよう。高階成忠の嫡流がどうなっているのかは、全くもって分からない

■高階氏も基本として一夫一妻だったかも

■源義親室の血筋を確かめてみよう。高階成忠の次弟・敏忠の嫡流は断絶した。源義親室は敏忠の嫡流に最も近い血筋だった

■高階氏の生没年付きの家系図まとめ

源家は「①源満仲―②源頼信―③源頼義―④源義家―⑤源義親」までは、愛妻家で身持ちの固い一夫一妻主義だったようだ。よく分からないけど、「婚外交渉絶対しない派」だったような気がする(厳密に言えば、源家の祖は「源頼信」だが。。。)

■尾張源氏に嫁いで来た源家の娘3人は、全員正室腹だったと思われる

 

■清和源氏の「親子の年齢差の平均」と生没確認編~再び、満政流について~■

■「源満政【1】(914?-?)から浦野重遠【6】(1100?-1185より後)までの「親子の年齢差の平均」が37.2歳で大き過ぎる。ひょっとしたら、1代抜けているのでは?」という話題に戻ろう。 《1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37… 注:赤色 注目青色 確認済み紫色 確認済みを注目緑色 推定済み、黒字 それ以外》 私は満政【1】から重遠【6】までの生没年を徹底的に調べ、推量してみることにした。定宗【3】と重宗【4】との間に、「定宗の息子で重宗の父である、定重」がいたようだ。この推量は正しいと思う。生没年の推量を「源満政【1】(914?-?)―忠重【2】(947??-1033)―定宗【3】(980??-?)―定重【4】(1013??-夭折?)―重宗【5】(1046??-?)―重実【6】(1080??-1159)―重遠【7】(1100?-1185より後)」に直した 《1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38…》

■【1】から【6】の生没年の推量は正しそうか、確かめてみよう、その1。源満政【1】(914?-?)、忠重【2】(947??-1033)について。Wikiのサイト「源満政」の「主君 藤原道長」と「正暦5年(994年)に・・・推察されている。」という文章は、源満政(914?-?)ではなく、その長男・忠重(947??-1033)のことを述べていると考えられる。源忠重(947??-1033)の子は、「男子:源定宗(980??-? - 従五位下、検非違使、右衛門大尉。源重宗の祖父で、養父。 女子:藤原通房(1025-1044)の乳母(992??-?)」だろう。このように考えると、整合性はあるだろう

■清和源氏の一族の色々な事柄と年齢との関係について

■【1】から【6】の生没年の推量は正しそうか、確かめてみよう、その2。定宗【3】(980??-?)、定重【4】(1013??-夭折?)、嫡子重宗【5】(1046??-?)について。義家(1039-1106)を義家(1043??-1106)へ、重宗【5】(1046??-?)を重宗【5】(1043??-?)へ変更した。これで整合性はあるだろう

■ずっと以前に書いた「■源家と母のご先祖様はいつから仲良くなったのか? 重宗の代からだろう」を、以下の「■源家と母のご先祖様はいつから仲良くなったのか? 定宗・定重親子の代からだろう」に改訂しよう

■源家と母のご先祖様はいつから仲良くなったのか? 定宗・定重親子の代からだろう

■【1】から【6】の生没年の推量は正しそうか、確かめてみよう、その3。八島重実【6】(1080??-1159)の実弟「重長、重時」の生没年を推量してみよう。「次男・重長、三男・重時」は間違いだろう。本当は「次男・重時、三男・重長」が正しいと思われる。「次男・源重時(無髪判官)(1083??-1142)、三男・源重長(木田三郎)(1086??-?)」と仮定することにする。よって、【1】から【6】の生没年の推量は正しそうだと言えるだろう

■まとめ(諱重複チェック● 「!」は苗字まで重複)(生没年付き)(四訂版)

 

■清和源氏の「親子の年齢差の平均」と生没年確認編6政流について、完結~■

■山田泰親【13】(1239??-?)から岡田重善【21】(1527-1583)までの「親子の年齢差の平均」は36歳だった。「親子の年齢差」が全て36歳だと仮定して、生没年を推量しておこう。 《1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38… 注:赤色 注目青色 確認済み紫色 確認済みを注目緑色 推定済み、黒字 それ以外》 推量値は歴史的事実と整合性があることが分かった。よって推量値が正しいと仮定することにしよう

■なぜ、山田泰親【13】から岡田重善【21】までの「親子の年齢差」が全て36歳だと仮定した「生没年の推量値」は、歴史的事実と全て整合性があったのか? 「親子の年齢差の平均」が36歳と大き過ぎるのみならず、全てそうだと仮定しても、整合性があるなんて。。。その理由を推量してみよう

■源満政の嫡流家系図(生没年付き)(四訂版)

■満政流木田氏本家生没年まとめ 《木田 1 2 3 4 5 6(祖) 7 8 9 10 11 12

■吉野氏生没年まとめ(三訂版) 《吉野 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10(祖) 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37…》

■「母の実家の苗字を「○田」へ変える計画と、父の実家の苗字を「○○」へ変える計画との繋がりについて」を修正しよう

■光仁天皇は百済王子善光の嫡流子孫である。百済王子善光の父・義慈王(599-660)からその五世孫・光仁天皇(709-782)までの生没年を推量してみよう

 

■清和源氏の「親子の年齢差の平均」と生没年確認編7~「陽成源氏説」の信憑性は甚だしく低い。従来通りの「清和源氏説」がしいだろう~■

■大雑把に考えると、90%以上の蓋然性で、従来通りの清和源氏の家系図の方が正しいと思う

■「陽成源氏説」について

■天暦7年の王氏爵不正事件に現れる、清和天皇の子孫でありながら陽成天皇子孫を詐称したとして罰せられた、源経忠とは一体、誰か? 源経忠とは、源満仲のことだと私は思う

■「清和源氏説」が正しくて、「陽成源氏説」は正しくないと思われる理由①~⑦。「清和源氏説」が正しい蓋然性は、99.99999999999999999999%くらいだと思う。「鳥羽天皇は本当は藤原公実と藤原光子の子」説と共に、最終決着は、Y染色体鑑定、DNA鑑定で決めればいいだろう

■「陽成天皇暴君説」の真相について。陽成天皇は伯父の藤原基経と対立していたので、藤原氏によって『暴君』ということにされてしまっているだけだと私は思う

■「源益撲殺事件」の真相について。私は次の二つの仮説1、2を立ててみた。仮説1「殴られて転倒した源益は、転倒した時の頭の打ち所が悪くて、死んでしまった。」 仮説2「殴られて転倒して別室に運ばれた源益に、計画通りに毒が盛られて、死んだ。毒を盛ったのは、シナリオを書いた藤原基経であり、仲の悪い陽成天皇を殺人犯にでっち上げて失脚させるためである。つまり、本当の殺人犯は藤原基経であり、陽成天皇は濡れ衣を着せられただけだった。源益を使って陽成天皇を侮辱させたのも、藤原基経だった。」

■「藤原高子と在原業平の恋愛」の真相について。在原業平の3人の子は全部、妻:紀有常長女が産んだと推量される。在原業平は8歳下の最初の正室・紀有常長女が3人の子を残して若死にした後、17歳下の藤原高子を継室としていたのではないだろうか? 「在原業平が女遊びを盛んにしていたプレイボーイ」というのは、藤原氏がでっち上げた大嘘のイメージではないかと思う。858年頃、藤原基経は叔父・藤原良房の養子にしてもらった後、清和天皇より8歳も上で、既に在原業平の継室になっていた藤原高子(842-910)(結婚して半年くらい経っていた?)を無理矢理離婚させて、清和天皇の後宮に入れたのではないだろうか?

■話を元に戻そう。「源益撲殺事件」の真相について。私は二つの仮説のうち、仮説2「殴られて転倒して別室に運ばれた源益に、計画通りに毒が盛られて、死んだ。毒を盛ったのは、シナリオを書いた藤原基経であり、仲の悪い陽成天皇を殺人犯にでっち上げて失脚させるためである。つまり、本当の殺人犯は藤原基経であり、陽成天皇は濡れ衣を着せられただけだった。源益を使って陽成天皇を侮辱させたのも、藤原基経だった。」が正しいと思う。仮説2が正しいと仮定することにしよう

■藤原氏が罪のない長屋王一家を殺してから1300年。発見された長屋王邸を人々の反対を押し切って破壊させた藤原氏(宮内庁)。「藤原氏の支配下の偽天皇家」がある限り、藤原氏による日本の私物化は止まらない。本当の天皇家(継体王朝)を何度も殺す藤原氏。藤原氏は「逆臣一筋1300年」。①天皇を殺す(犠牲者の例:称徳天皇)、②皇后を殺す(犠牲者の例:井上皇后)、③皇太子を殺す(犠牲者の例:他戸皇太子)、④有力皇族を殺す(犠牲者の例:長屋王一家)、⑤天皇に濡れ衣を着せる(犠牲者の例:陽成天皇)、⑥皇后に濡れ衣を着せる(犠牲者の例:井上皇后)、⑦皇太子に濡れ衣を着せる(犠牲者の例:他戸皇太子)、⑧有力皇族に濡れ衣を着せる(犠牲者の例:長屋王一家)、⑨托卵をして天皇家を乗っ取る(犠牲者の例:堀河天皇)。。。藤原氏は「逆臣9つの犯罪全部コンプリート(達成)」。。。これは「期間の長さ、悪事の質と量」共に、世界的に見ても希(まれ)な「逆臣」だと思う。逆臣・藤原氏は「逆臣界の世界一」。。。よりによって「逆臣世界一の藤原氏」がやっている「『逆臣世界一の藤原氏の血筋』と推量される天皇家」なんかいらない

 

藤原ペテン天皇制は「永久廃止、完全廃」が必然

■清和源氏の先祖の一人・坂上田村麻呂の父である坂上苅田麻呂(当然、弓の名手と思われる)は、藤原仲麻呂の乱(764年)で藤原仲麻呂(恵美押勝)の子・訓儒麻呂を射殺していた。これは、弓に自信のある源重貞が保元の乱(1156年)で放った矢が敵方のトップ・左大臣藤原頼長の首筋に命中し、その傷が元で藤原頼長が落命したことを思い起こさせる。坂上苅田麻呂は陸奥鎮守将軍になった。坂上田村麻呂は鎮守府将軍、征夷大将軍になり、征夷大将軍の称号を好んで、身に帯び続けた。坂上氏は清和源氏に似ている。やはり、先祖の血だろうか?

■清和源氏の祖・源経基の先祖である源潔姫の母は当麻治田麻呂女であり、当麻氏は聖徳太子(厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ))の異母弟・当麻皇子の「嫡流または庶流」子孫なので、「実の血筋で繋がっている清和源氏の一族」は、一人残らず、継体王朝(本当の天皇家)の血を引いていることが分かった

■日本国民1億2700万人(2017年現在)のうち1億人以上は、清和源氏の血を引いているような気がする。これらの人は清和源氏の血を通じて、継体王朝(本当の天皇家)の血を引いているということになる。従って、本当は、日本人全体にとって、継体王朝(本当の天皇家)の「嫡流子孫でもなく、庶流子孫でもなく、単なる子孫であること」に、稀少価値は一切ない。継体王朝の末端皇子の血を引いていることは、全く意味もなければ、全く価値もないのである。「愛、叡智、力」を持ち、「天皇制が邪悪な詐欺だ」と判断できる、見抜ける力を持っていること、及び、そのような人間に成長していくことこそが、人間として一番大事である

■「藤原氏および藤原すり替え天皇家(偽偽偽・・・偽天皇家)」は、継体王朝(本当の天皇家)の血を「引く人と引かない人」が混在しているものの、ほとんど、あるいは、大多数(7、8割以上?)の人が、どこかから継体天皇(本当の天皇家)の血を引いていると思われる。その点は、日本人全体と全く同じである。「ほとんど、あるいは、大多数の人が、どこかから継体王朝の末端皇子の血を引くと思われること」。。。そのことに、あまり大した意味はないだろう。いや、ほとんど意味はないだろう。。。だが、特筆すべき点として、「藤原氏および藤原すり替え天皇家(偽偽偽・・・偽天皇家)」は、祖・藤原鎌足の男系子孫であり、祖・藤原鎌足の血の濃度が、日本人全体よりも「びっくりするほど著しく高い」と思う。それが彼らの血筋の非常に、非常に、大きな特徴だと思う。「たまたま引いた、継体王朝の末端皇子の、薄い、曖昧な血」とは違って、意図的に確実に狙ってやっていることだと思う。「藤原鎌足(623??-669)(約1400年前に誕生)の血の濃い、藤原鎌足の男系子孫の血」を「2600年前から続く、現人神の、尊い万世一系の天皇家の血」として、「藤原氏の主張を盲信するように馬鹿化教育されている、暗愚な日本国民」に「敬え」と強制している、「藤原ペテン天皇制」。藤原氏と藤原すり替え天皇家が家系図をでっち上げて藤原ペテン天皇制をやっていることは、正真正銘の詐欺だと思う。彼らが「万世一系の天皇家の祖」として敬っているのは、実は、彼らの祖・藤原鎌足(623??-669)だろう。義のためにも、継体王朝(本当の天皇家)のためにも、真実のためにも、神のためにも、人類の平和のためにも、「逆臣・藤原がやっている邪悪な詐欺である藤原ペテン天皇制」を「永久廃止、完全廃止」すべき

 

■尾張源氏小川氏1/3―報の紹介

■尾張源氏小川氏について

■尾張源氏小川氏と「小川氏本家初代・小河重房の後裔を称する水野氏」について。サイト①、②、②-2 「小河氏~」、③、③-1'、⑳~㉚、㉚'、㉛~㉝

■このブログで書いた尾張源氏小川氏情報(再掲1)~(再掲4)

■尾張源氏小川氏に関する真実を推量した。結論:「山田兼継の元婚約者は、尾張源氏小川氏本家四代目当主・小川雅経の娘だろう」

■「■このブログで書いた尾張源氏小川氏情報(再掲1)~(再掲4)」は今のところ正しいと考えられるので、「サイト①、②、②-2 「小河氏~」、③、③-1'、⑳~㉚、㉚'、㉛~㉝」の記述について、何が真実で何が虚偽かを一つ一つ考えていこう

 

■尾張源氏小川氏編2/3―何が真実で何が虚偽か考えていこう■

■その1:サイト①、②、②-2 「小河氏~」、③、③-1'

■その2:サイト⑳~㉔。⑳:保留。㉑:保留

■尾張源氏小川氏の家系図と生没年について。まず、小川氏の家系図の推量。雅経は果たして本当に尾張源氏小川氏の「本家当主」なのだろうか? その蓋然性は高い よって、そうだと仮定することにしよう。尾張源氏小川氏の生没年を推量してみよう サイト㉑の下線部分と整合性があるかどうか、確認してみよう。サイト㉑再びチェック。㉑:再び保留。1360年の土岐直氏来襲から、小川氏本家の人達の生没年を推量してみよう。「雅継」「胤雅」「雅兼」の名に込められた、小川氏本家の山田兼継への強い思い。1333年、北条氏が滅亡した 「雅兼・重勝・信成・信忠」の名前に込められた思い。小川正房と四人の子の生年を、私は次のように推量した。小川正房と四人の子の生年の推量値から、小川氏の他の人の生年も推量し、整合性があるかどうか確認してみよう 修正 一応、整合性はあるだろう。尾張源氏小川氏生没年まとめ(改訂版)。サイト㉑再々度チェック。㉑:チェック終了。まとめ(諱重複チェック● 「!」は苗字まで重複)(生没年付き)(六訂版)

■その3:サイト㉕~㉙

■その4:サイト㉚、㉚'、㉛~㉝

■サイト⑳再びチェック。⑳:チェック終了

■サイト㉑追加チェック。㉑:追加チェック終了。尾張源氏小川氏の住む場所と苗字の変遷 地図の上で確認。於大の方の実家・水野家の登場と成り済まし。尾張源氏小川氏生没年まとめ(三訂版) 苗字をもっと厳密に書いた 私の高祖母の父・小川源助(?)も加えておいた。尾張源氏小川氏の家系図(私の推量)。山田重親は豪農ではなかったのか 「重親(号山田左近大夫、從五位下、左近将監)」とは何か?  承久の乱後のできごとのまとめ(三訂版)

 

■尾張源氏小川氏編3/3―まとめ■

■「サイト①、②、②-2 「小河氏~」、③、③-1'、⑳~㉚、㉚'、㉛~㉝」の記述等について、正しいと思われることを分類し、順に並べて、まとめてみた

1360年の小川氏敗戦以降の小川氏本家についての推量

■尾張源氏小川氏についてのまとめ(事実と思われることと、私の推量)

■『自分流』の家系図(改訂版)

■「山田兼継と『自分流』」の血筋のまとめ(三訂版)

 

■輪廻転生編2

■羽生結弦選手、浅田真央、村上大介選手の前世について

■「前世に関する仮説:町田樹は山田兼継の元婚約者。羽生結弦選手は山田兼継の憧れだった、源義経。浅田真央は山田兼継の母。村上大介選手は山田兼継の次弟」

■羽生結弦選手が源義経の生まれ変わりである根拠

■浅田真央が山田兼継の母の生まれ変わりである根拠

■村上大介選手が山田兼継の次弟の生まれ変わりである根拠

■町田樹、羽生結弦選手、浅田真央、村上大介選手、、、、それぞれの前世が当たっている蓋然性をどう考えるか?

■前田智徳の前世について

■「前世に関する仮説2:前田智徳は山田兼継の祖父・山田重忠」

■なぜ私は「前田智徳が山田重忠の生まれ変わりかも知れないこと」について、このブログに書くことにしたのか?

■前田智徳が山田重忠の生まれ変わりである根拠

■町田樹、羽生結弦選手、浅田真央、村上大介選手、前田智徳、、、、それぞれの前世が当たっている蓋然性をどう考えるか?

 

ビラ抜粋

■非常に残念ながら、いま、日本の民主主義が危ない

■日本の社会をまともにするために、一人一人が知恵を絞り、できるだけ有効なことをしよう

■頭が良くなるとはどういうことか?

■清和源氏DNA地図の作成にご理解とご協力頂きたい

■お勧め(愛と叡智と力を持って欲しい)

■お勧め(正しい信仰心を持って欲しい)

 

■輪廻転生編3

2017123日現在、町田樹から連絡は来ていない。20145月に手紙の中で意思の疎通をしたいと書いてから3年半以上経った。いくら待っても、もう来ないかも知れない。でも、念のために今年いっぱいぐらいまで待とう。それでも来なかったら、「もう町田樹から連絡が来る可能性は全くない」と、はっきりとした結論を出そう。それから、町田樹関連(?)の霊現象について、熟考していこう

■「前世に関する仮説」から「連絡待ち中」の町田樹の名前だけ外しておこう。「前世に関する仮説」、「前世に関する仮説2」を合わせて次のように改訂しよう。「前世に関する仮説(改訂版):羽生結弦選手は山田兼継の憧れだった、源義経。浅田真央は山田兼継の母。村上大介選手は山田兼継の次弟。前田智徳は山田兼継の祖父・山田重忠」

■羽生結弦選手、浅田真央、村上大介選手、前田智徳、、、、それぞれの前世が当たっている蓋然性をどう考えるか?

■神への祈り

■年末年始は忙しいかも知れないので、期限を20181月いっぱいまで延ばした

 

■補足編

■町田樹関連について補足しておこう

■町田樹関連(?)の霊体験(?)の追加。⑤2014年の夏~秋の間のある日と、⑥201584日午後8時頃の霊体験(?)。⑦2016101() ジャパン・オープン2016 (さいたまスーパーアリーナ)での町田樹「“Ave Maria by Chris Botti」の演技後の霊体験(???)。⑧2017107() カーニバル・オン・アイス2017 (さいたまスーパーアリーナ)での町田樹「Swan LakeSiegfried and His Destiny(白鳥の湖:ジークフリートとその運命)」の演技後の霊体験(?)

■町田樹の「Don Quixote Gala 2017Basils Glory(ドン・キホーテ ガラ 2017:バジルの輝き)」に対する私の解釈

■町田樹の「Swan LakeSiegfried and His Destiny(白鳥の湖:ジークフリートとその運命)」に対する私の解釈

■まとめと考察:町田は「各プログラムの中の恋しい相手は全部同じ魂だ」と言いたいのではないだろうか? 町田は「Don Quixote Gala 2017」、「Swan Lake」を演じることによって、「恋しい相手と現世でも、あの世でも一緒になりたい」と主張しているのでは? 町田が宮中お茶会に欠席したのに、私の手紙やブログをほとんど読んでくれなかったということは、考えられない。。。「・推量3」は最も無難そうだったが、やはりボツにすべきだろう。すると「・推量1:私に恥をかかせる目的のため」が正しいということになってしまう。。。だが、そのように推量するのは、町田樹に対してあまりにも悪い。。。一旦ボツにした「・推量2:どうしても、前世の元婚約者の生まれ変わりである私と一緒になりたいと考え、それに対するみんなからの理解を得る目的のため」を復活させるべきなのだろうか? ・・・。くっ、苦しい。。。もし万が一「・推量2」が正しくなかったとしても、少なくとも、霊的存在が私に「・推量2」が正しいと思わせるように、一連の霊現象を計画して実行していると思われる。よって、私がそのように思っても仕方がない。これから先は、受け身的に、この「・推量2」が当たっているかどうか、つまり、町田樹から連絡が来るかどうかを見守るしかない。。。

■今年2018年は2月に平昌五輪があるから、ひょっとしたらその関係で忙しいかも知れないので、期限を20182月いっぱいまで延ばした

 

補足編4

■町田樹はカーニバル・オン・アイス2015の「継ぐ者」の冒頭で、ロングサイド中央辺り(テレビ画面の正面)に向かっていたのをやめて、私の方(テレビ画面の右斜め手前、ロングサイドのコーナー辺り)に向き直して演技を開始してくれた。。。町田樹はこの時も霊体験(?)⑧の時と同様、さいたまスーパーアリーナの私の座席のある方向が分かったのかどうか? みんなはどう思う? (・3・?)ノ

 

補足編

2018228日午前89分現在、残念ながら町田樹から連絡は来ていない。いよいよ、31日午前0時に結論が出るよ。「町田樹が私に対して連絡を取りたくても、どうしてもスケジュール的に取れない」ということは絶対にあり得ないので、もし連絡が来なければ、それは「町田樹から私への完全な拒否」「町田は私に対して、隣人愛も友愛も人間愛も全く持っていない」という意思表示だと思って間違いないと思うよ。今現在は99.9999999999%以上連絡は来ないと思っている。でも一応、最後の瞬間まで0.0000000001%希望を持って待つことにするよ

 

補足編6

■今日は201831日。残念ながら町田樹から連絡は来なかった。「町田は私に対して、隣人愛も友愛も人間愛も全く持っていない」という結論が出た。それなので、町田樹は友情の対象からも外したよ。また後で、町田樹関連(?)と思われた霊現象(?)などについて、熟考していこう